息子と10円玉

先日息子が学校帰りに10円玉を拾いました。以前なら何も考えずにそのまま貯金箱行きだったでしょうが、つい拾ってはみたものの違和感を感じ、笑われるかもしれないけれど交番に届けようと思ったそうです。その日は寄る時間が無く、そのまま家に持ち帰りましたが、自分で持っていることが気になって気になって仕方ない様子でした。

忘れないようにと下駄箱の上に置いていましたが、結局行く機会を得ず3日が経ちました。

玄関を通るたびに目にし、ああ今日も行けなかったと心にチクリと感じる毎日だったようです。

昨日やっと交番に届けに行き、とても晴れやかな顔で戻ってきました。

ずいぶん重い荷物を下ろしてきたような感じです。

10円なんてとても小さなお金ですが、人の心をこれほどまでに刺す威力があるのだなと思いました。

思えば、以前の私はこの境界線が曖昧で、「お金を拾う=運が良い」と思っていましたから、よほど大きなお金でなければラッキーとばかりにお財布に入れていました。お釣りを余分に貰ったり、レジの人が打ち忘れたりした時はシメシメと黙っていながら、逆の場合にはキッチリと要求していました。

旦那さんの定期を借りたり、レジャー施設やバイキング等で子供の年齢を偽ったり・・・小さな不正をせっせと積み上げていました。心のどこかで良心がチクリとしても、このようなことは誰しも気軽に当たり前のようにやっている世の中なのに、自分達だけ馬鹿正直に生きてどうするという気持ちもありました。

全力で「得したい」といつも願っていて、他人から「こんな風に得をした」という話を聞けば、たとえそれがズルであっても羨ましく思い、自分も機会があれば是非その悪知恵を使ってやろうと思っていました。

そのくせ「善人でいたい」「いい人と思われたい」「正義を行いたい」という欲求もありましたから、一つの出来事に悩んだり恥じたり喜んだり誇ったり、私の心は大忙しでした。

それまでの私の基準は「人」にあったので、時と場合によって下す判断が変わっていました。人の価値観は実に様々で、法律で問われるような大きな罪は分かっても、日々の生活の中で生じる小さなことでは善と悪がグラデーションを成しています。どこからが善でどこからが悪なのか、はっきりと分かりません。だから、ある集団の中では許されないことが、ある集団の中ではむしろ積極的に推奨されたりということが出てきます。私はその定まらない許容範囲というものに常に頭を悩ませていました。

私の基準が「神様」に変わり、「神様の目から見てどうなのか」という視点になった時、この部分がスッキリと解決しました。神様の前では善はどこまでも善で、悪はどこまでも悪だからです。

ただ在るべき姿で在る、得るべきものだけを得るという単純なことが、自分の中の損得勘定や世の中の風潮に惑わされると、とても難しく感じます。どんな小さなものにも忠実であろうと心に決めてから、私は生きるのが本当に楽になりました。

14歳の若さでその基準を得ることができた息子は幸せだと思いました。いつかもっと大きなもので試されたとき、この日の10円玉を思い出して善の選択ができますように。

まだまだ完全には程遠い私ですが、一つ一つ自分の中の無意識の悪や拘りを手放していきたいです。

 


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