うまれることと死ぬこととvol.7

病室の窓の外が明るくなってきました。

時間を追うごとに冷たくなっていく我が子を私は傍らに抱き、眺めては時々浅い眠りに落ちていました。もうそこに命は無いこと、ただの肉という箱でしかないこと、そうして抱いていることは私達自身の慰めでしかないのだいう理解が、一晩かけてゆっくりと私の心の底に落ちて止まりました。

お別れの時が近づいていました。

看護師長さんが葬儀社の方を連れて入ってきました。背の低い伏し目がちの物静かな男の人でした。

私の体が回復し退院できるのは1週間後でしたから、それまでは無理にお葬式をしなくていいのでは、と助言されました。その日まで、遼君の亡骸はその方が安置してくださるというお話でした。

お葬式の日は翌々週の土曜日に決まりました。9月16日でした。丁度一ヶ月後の10月16日は私達の結婚式をした日です。この先私達は毎年、悲しい式を思い出して沈んでも、その一ヶ月後の同じ日に夫婦の原点である喜びの式を祝うことになるのだと気付きました。思えば、遼君の誕生命日は9月5日、長男の誕生日はその一ヶ月後の10月5日です。悲しみの月の一ヶ月後に喜び祝う月が用意されている、その偶然が、まるで神様から「元気を出しなさい」と言われているような気がしました。

事務的な話や手続きが終わり、遼君の亡骸を手渡す時が来ました。最後の一筋の重みが取り去られる瞬間まで、私の手は遼君を感じようとしていました。

看護師さんが、私の用意した真新しい産着を遼君に着せてくれました。とてもよく似合っていました。着せるのを楽しみにしていた服はそれ一枚だけではありませんでした。これも着せたかった、あれも着せたかった。でもたった一枚しか着ることはないのでした。そしてそれもすぐに焼かれてしまうのだと思うと、虚しい気持ちになりました。

遼君は行ってしまいました。

再び私達夫婦だけになりました。病室が随分と広く、寒々しく感じました。私達はまた暫く泣きました。

麻酔はとっくに切れて、痛みが戻っていました。痛み止めが処方されていましたが、私は飲む気になれませんでした。遼君が去って、再び自分を赦せない気持ちが蘇ってきた私は、痛みは私への罰であり、そこから逃れようなどという甘えは許さないと自分を鞭で打ちました。

 

息子が病室に入ってきました。実家には私の妹と義母も一緒に泊まってくれたので、私は安心して息子から意識が外れていました。あのような過酷な一日を過ごし、私と夫から離れて、一体どのような一夜を過ごしたのだろうかと、そのとき初めて心によぎりました。息子はとても元気そうに見えました。妹は、息子がどれだけ聞き分けよく気丈に過ごしたかを話してくれ、息子もすっかりお兄さんらしく、誇らしげにしていました。

ベッドに横たわり沢山の管や装置に繋がれている私に、息子は遠慮がちに近づいてきました。手を伸ばして、おいでと抱き寄せたときに私はハッとしました。

昨日すべすべで滑らかだった息子の全身の肌が、まるで砂壁のようにざらざらと荒れていたのです。肌は息子の心を物語っていました。彼は何事も無かったかのように私の腕の中でただ嬉しそうにしていました。

「偉かったねぇ、偉かったねぇ。」

なでながら私は涙が止まりませんでした。

こんな小さな体で、健気に気丈に耐えている息子を見て、私は自分の間違った考えに気付きました。昨日の夫の泣き顔も重なりました。

「私は元気にならなければならない」

私の中のスイッチが切り替わりました。私が元気になることが答えだ、とはっきりと思いました。

護られる側から護る側へ、いたわられる側からいたわる側へ、慰められる側から慰める側へ、私の意識が変わりました。

「私は誰よりも元気な母親になろう」そう決心しました。

そして痛み止めを拒むような自虐的なことを止めました。ただただ、自分が早く回復するようにと、それだけを考えて毎日を過ごそうと心に決めました。

 

 

 

主よ、私に命を与えて下さったことを感謝します。

心からあなたの御名を讃えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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