うまれることと死ぬこととvol.8

病院側から家族に対して説明の日が設けられました。

家族は病院側の罪を糾弾し、私は私の罪を糾弾していました。

親達と兄は病院側の態度によっては訴訟をも辞さない構えでした。

私と夫は参加しませんでした。ただ、病室で静かに待っていました。

あの日、私は全てを見ていました。万が一の場合の手術の準備が不十分だったことも、病院側の連携がうまく取れていなかったことも。

VBACを行う直前の母体への確認やフォローは全くありませんでした。事前の書面の取り交わしも無く、手術の承諾書すら夫がその場でサインしたくらいですから、危機管理に問題があったことは明らかでした。私がひとたび病院側を責めれば、必ず病院が負けることが分かっていました。

でも私はそのことを私の中にとどめました。あの時の私の罪の矢印は、全て私自身に向いていました。訴訟や示談で慰謝料を取ったところで何になるんだろうという思いもありました。我が子の命の値段など想像したくもありませんでした。

私は天井を見つめながら、その説明会の間、院長先生をはじめ沢山の看護師の人員が取られ、妊婦さん達の診察や分娩に差し支えは無いのだろうかと考えていました。只でさえ待ち時間の長い、人気の病院だったからです。そしてもし訴訟になった場合、ここに通う妊婦さん達は一体どうなってしまうのだろうかと他人事のように心配していました。

長い時間の後、親兄妹らが戻ってきました。皆悲しく沈んだ顔をしていました。私のことで、このように皆を消耗させたことを申し訳無く思いました。

妹から説明会の一部始終を聞きました。病院側は非を認め、家族に対して全面的に謝罪をしていました。隠蔽や誤魔化しが無かったことに私は安心しました。病院側の誠意ある姿勢を感じました。

そして、出産途中で私の子宮が破裂したこと、その場所に胎盤が付いていたこと、出血多量で輸血したこと、死因は早期胎盤剥離による窒息死だったことを、私は妹の口から知りました。

一刻を争う状況下、赤ちゃんを優先するか母体を優先するか二者択一の判断を迫られたこと、院長先生の脳裏に4歳の長男の顔が思い浮かび、母体を優先したことを知りました。また、普通ならば全摘出される筈の死にかけた子宮を、彼が必死にマッサージをして残すことができたということも。

そして、破裂した子宮の縫合は院長先生が医師の誇りにかけて完璧だと言えること、また、もし希望するならば次の妊娠も望めるだろうと言ったことは、私の頭の中に深く刻み込まれました。

当時現役の看護師だった妹を私は全面的に信頼していました。彼女が私の代理でした。皆がそれぞれ私達のことを思って行動してくれましたが、本当に理解してくれる人は妹しか居ませんでした。

父と義父と兄は、どんな要求をも呑むと言った病院側に対して、「落とし所はどこにするか」と相談していました。私はその言葉に違和感を感じました。

母と義母は悲しみとショックに只々狼狽していました。

本当に妹だけが頼りでした。

私達夫婦は訴訟も示談も、賠償を求めるようなことは一切しないことに決めました。

むしろ手術費、入院費、治療費は、きちんと実費を請求して欲しいと伝えました。私のその後の治癒を最後までサポートして欲しいこと、そして一年後、子宮が妊娠できる状態に戻っているかの検査まで責任を持って見届けて欲しいことを私達は求めました。

お金という部分での慰めを私達は一切受け取りたくはありませんでした。そんなことで済ませて欲しく無かったのです。

この病院での初めての失敗例、200分の1の確率に当選した私達を神様は静かに見ておられました。


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