うまれることと死ぬこととvol.12

それから私は自分の心の中の誓いを静かに遂行していきました。

「息子に日常生活を戻してやること」そして、

「誰よりも元気な母親になること」

それは自分が自分に課した使命であり、厳命でした。

お葬式の一週間後、4歳の息子が通っていた児童館の体操クラブがありました。私は迷わず息子を連れていきました。それは自分自身を鞭打つスパルタ行為でしかありませんでしたが、「私は大丈夫だ」と思っていました。

事情を知らない母親の一人がお腹の小さくなった私を見て、「あれ!生まれたんだね!?おめでとう!!」と声を掛けました。そんなことは予想していた事態でした。

「・・・ううん、実は亡くなってしまったの。」

私は平然と言ってのけたはずでした。それなのに私の意に反して目からは涙が噴き出しました。ああ、まだまだ無理なんだ、とその時初めて気付きました。

公園にも行きました。狭いマンションの中に息子のエネルギーを閉じ込めておくことは酷でしたし、毎回夫やお友達のお母さんにお願いするわけにもいきませんでした。

私が息子と公園に現れたとき、集まっていた母親達は一瞬凍りました。噂はたちまち広がっていて、事情を知らない人はいないようでした。仲が良いわけでもなく、かといって全く関わりが無いわけではないという中途半端な関係が一番気まずく、お互いに困りました。憐みやいたわりの目、探るような目、驚きの目、あらゆる視線が砂場の縁に座る私の背中に注がれてチクチクしました。息子は嬉しそうに夢中で遊んでいました。

毎日毎日、そんな調子で過ぎていきました。その時の私は周りから見たらどんなに痛々しかったでしょう。全身傷だらけの人が血を吐きながら、「大丈夫、大丈夫!全然、元気!」とニコニコ言ってのけるような感じでしょうか・・・痛々しいというよりも、ホラーですね。

どちらの実家に行くことも苦痛でした。私達の悲しみの上に親達の悲しみが乗っかり、2倍3倍の重荷となりました。私達夫婦は自分達の悲しみを処理するだけで手一杯だったのです。

母が私の手を握って泣いたとき、私は思わず手を引っ込めました。

義母がお骨を見ながら、可哀想に、と涙するとき、私は慌ててその場から離れました。

それは、彼女達自身の悲しみだと感じたからです。私にはそれは請け負えない、自分自身で処理してほしいと思いました。私達に見せないで欲しい、と。

父や義父からじわじわと漏れ出る悲しみさえ、私達の手に負えませんでした。

家族三人の狭いマンションだけが私達のシェルターでした。

いっそのこと、どこか遠くに行ってしまいたい。知っている人が誰もいない土地に。ただ、自分達の悲しみを修復することだけに専念できる場所に。

遼ちゃんの骨壷も気になっていました。小さな小さな遼ちゃんには、あまりにも不釣り合いな器でした。

 

「沖縄に行きたい」

ふと頭に浮かびました。

心の中に、青い空とどこまでも澄んだ海が広がりました。ああ、沖縄に行きたい。

そこに遼ちゃんにピッタリの骨壷があるはずだ、という不思議な確信がありました。

 

11月、私達は沖縄に飛び立ちました。お葬式から3ヶ月、2泊3日の短い短い癒しの旅でした。

遼ちゃんの骨壷も連れていきました。病院から貰った青いギンガムチェックの小さなリュックに、それは丁度おさまりました。息子はそのリュックを自分が背負うと言って譲りませんでした。

朝早くに着き、レンタカーを借りると、すぐに海に行きました。海が大好きな息子は、夢中で波打ち際で遊びました。小さな美しい貝を拾い上げると、ヤドカリが顔を出しました。夫と息子と三人、沢山笑いました。2006111716173320061117135414

 

美ら海水族館に行ったり、ソーキそばを食べたり、途中綺麗な砂浜に出会う度に車を停めて遊びました。それは本当に楽しい、ありふれた家族旅行でした。骨壷を連れていることを除いては・・・

20061118160528

私の中の確信を確かめるべく、琉球ガラスの工房やお店を訪ね回りました。しかしそこには遼ちゃんの壷はありませんでした。

読谷村の「やちむんの里」に寄りました。工房一つ一つ、作家さんそれぞれの個性があり、素朴で素敵な器は沢山ありました。でも私の思い描くような壷はなかなか見つかりませんでした。

何軒目だったか、魚や海の生き物ばかりが描かれている器の工房に入りました。

ここには無いだろうな・・・・

すぐに出るつもりでした。

ぼんやり見回すと、沢山の器に紛れてひっそりと佇む、小さな壷が目に入りました。

それはその工房の他の器とは、全く趣の異なったものでした。優しい土の色に深い青や水色が置かれ、海や空や大地を感じました。

手にしたとき、ああ、きっとこれだ、と思いました。

しかしその直感を確信できず、やっぱり全部の工房を見てからにしようと、棚に戻して店を離れました。

どこを見ても、どの器を見ても、あの壷が頭から離れませんでした。見えない糸で引き戻されるようでした。

やはり、その壷以外にふさわしいものはありませんでした。

お骨を移してみると、まるで注文して作ってもらったかのようにピッタリとおさまりました。蓋を閉めたとき、そこに血が通ったような、温かな感じがしました。

 

ryou
作られたのは宮城三成さん

 

私達の心は得も言えぬ充足感に満たされました。

 

 

主よ、私は自分の心の声に従って生きてきたつもりでした。

でもそれは、他ならぬあなたの声であったことが今は分かります。

あなたの愛と導きに感謝します。

 

 

 


コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中