父の気付き、母の一歩

先日、父が老人保健施設、いわゆる「老健」に入居したとの知らせを受けました。

老健とは、自宅で療養することが困難になってしまった老人がリハビリしながら生活する施設です。

父の認知症は、最初は名前や漢字が思い出せない、窓・網戸・雨戸の区別が付かずに開け閉めで混乱する等、割と平和な症状でしたが、トイレの失敗が度重なり、みるみる母は憔悴していきました。

また現実逃避のように幾らでも眠ってしまうので、体力もどんどん衰えてしまいました。

自宅での老々介護はもはや限界であり、更に私達の助けもはねのけてしまった母は、ケアマネージャーさんに頼って何とか必死で道を切り拓いていきました。

思えば昔、父が単身赴任先で倒れた時も、兄が鬱病で苦しんでいた時も、本来母が必死で立ち回らなければならないあらゆる正念場において、会社の人や子供達に丸投げし、自分では一切手を下さなかった母です。この度初めて夫と必死で向き合い、自分で全てをやり遂げました。それは快挙であり、本当に物凄く大きな一歩だと思いました。

父は20年以上前に、縁あって東北のとある会社を引き継ぎました。関東に住む家族と離れ、地盤も無い土地に溶け込む為の苦労は並大抵ではなかったと思います。家族とは、それこそ盆暮れ正月だけ会うような状態でした。私達兄妹がそれぞれ家を出て、ほんの一時期だけ母が東北の家に一緒に住んでいたこともありましたが、結局仲違いして住み慣れた関東の自宅に戻ってきてしまいました。その後、二人はずっと別居状態だったのです。

そして父は3年ほど前にその会社を畳む決心をし、社員との軋轢や重責に完全に心が折れてしまったのです。既に認知症の兆候もあったのだと思います。

ある日父は蒸発するつもりで始発列車で東京方面へ向かいます。どうやら四国でお遍路をして、そのまま野垂れ死ぬ計画だったようです。しかし、奇跡に次ぐ奇跡、社員の方々と私達家族のミラクル連携プレーにより、その日の夜に身柄を確保されたのでした。まさに神様の御計らいが無ければあり得ない奇跡でした。まだまだ父は、やらねばならないことが沢山残っていたということかもしれません。

それについてはまたいずれ書きたいと思います。

蒸発騒ぎから認知症が顕著になるまでの約2年間、父は独り身の兄の家に身を寄せるようになりました。弱りきっていたその頃の父にとって、恨み節と蔑みに満ちたの母との暮らしが棘とげしく、とてもいたたまれなかったのです。しかし鬱病治療中の兄との暮らしもまた苛酷でした。父は精神的にどんどん病んでいき、私の家にやってきた時には廃人のようでした。

薬を全て抜き、とにかく心と身体を癒すことに力を注ぎ、半年間で見違えるほど元気になりましたが、認知症は少しずつ進んでしまいました。最後に再び母の元に戻り、数ヶ月の二人きりでの生活の中で、いよいよ家族だけで支えるのは限界だと知るに至りました。

リハビリや運動をしっかりとサポートしてくれる老健に入居が決まり、とりあえず母もホッとしたようでした。

若い頃から向き合うことを極端に避けて、離れ離れに暮らしてきた父と母です。
父は遠洋漁業の一等航海士だったので、数か月~数年単位で海外へ赴き、思えば結婚当初から一緒に暮らすことが本当に少ない夫婦でした。
私も小さい頃から1年以上父と会わないということは珍しくありませんでした。
父は船乗り気質(といっていいのかわかりませんが)感情が激しく血気盛んで、子供に極端に厳しい人でしたから、私と兄は父が帰ってくるのが楽しみというよりは、ビクビクしていました。
珍しい海外のお土産はとても楽しみでしたし、父が帰って来たばかりの数日間は珍しさと懐かしさで嬉しかったのですが、父の気に障ると怒号が飛ぶばかりかゲンコツと張り手が飛び交い、本当に激しく打ち据えられるのです。父のご機嫌は兄と私にとって死活問題でした。
父がニコニコとして機嫌が良いと、私達兄妹はホッとしてつい気が緩んでしまい、突然雲行きが変わってしまうなどということもよくありました。まるで山の天気のようです(笑)
特に夕飯時はそのようになりやすく、私はご飯も喉に通らないような心持のこともしばしばでした。それでなくとも私は偏食でしたから、食事の時間=恐怖の時間という思い出です。

父の怒りに火が付き暴力が始まると、母はただ泣いて父のやらせるがままにしていました。母が間に入って庇えば庇うほど、余計に増長してしまうからだと言っていましたが、母は怖かったのだと思います。特に二つ上の兄に対する折檻は相当激しいものがありました。

父は意識してか無意識なのかはわかりませんが、偉大な父という自分の存在感をそのように激しく刻み付けていたのかもしれません。男親不在の息子が、なよなよと育つのが許せなかったのだろうとも思います。

女で年下だった私は兄よりは容赦されていましたが、それでも同じ年頃の女の子でこのように折檻されている子はあまりいなかったように思いますし、兄が暴力を受け続けているのを見るのも本当に恐怖でした。
布団に入って眠るとき、生きているのが辛く、この苦しみはいつまで続くのかと、永遠に続くのではないだろうかと、気の遠くなるような思いで枕を涙で濡らす日々の記憶があります。
「お父さんなんていない方がいい」とむせび泣く私に、母は「ごめんね、ごめんね」と泣くばかりでした。
いま、このように書いてみて、正直自分でもドン引きしてしまいました(笑)
本当に自分の生い立ちは異常だったなあと。私よりももっと過酷な経験をしている人は、世の中に星の数程いるとは思いますけれども。

父は母に対しては全く手をあげませんでしたが、言葉や態度による威圧抑圧は相当でした。子供には「しつけ」と称する折檻があまりにも多かったです。

どんなに良い成績を取っても、絵や作文で表彰されても、父から褒められることはほぼ無く、学期末の通知表はオール5ではないからとゲンコツ、ビンタされる儀式が待っていました。(ひ、ひどいです・・・笑)

それ以外にも様々な心の苦しみを抱えていた私は、

「大人になったら幸せが待ち受けているんでしょうか。だったら早く大人になりたいです」

と、漠然と信じていた大きな神様に心から祈っていました。

父は私が小学校に上がるくらいの頃には既に船から降り、水産関係の会社に勤めておりました。

海外との取引が主で、数か月の出張はしばしばありましたから、なんだかんだで父が不在のことは多くあり、船乗り時代と然程変わらないように思えました。これも神様の御計らいだったと今は思います。

ただ、機嫌のよい時の父は力いっぱい遊んでくれるので、楽しかった思い出も勿論あります。愛すべきところは沢山ありました。

今、子供時代の頃のことを恨んでいるか、と言えば、不思議と全く恨んでいませんし、その頃を思い出しても心が痛む事はありません。苦労して育ててくれたことは嫌という程わかっていますし、本当に感謝しています。それに私は小学校四年生頃から父に対する拒絶感が激しく、どんなに怖い顔をされても怒鳴られても、「父が嫌い」という態度を貫いたので、気が済んだのかもしれません。私達が成長していくにつれ、激しい折檻は減っていきましたし、私達も知恵をつけていきました。

私は中学2年生になった頃から少しずつ父に対する拒絶感が減り、私と父の関係性に雪解けが見られました。すると今度は母が父に対してボイコットをするようになりました(笑)

例えば、父が家に会社の友人を連れて来た時に、2階に上がったまま降りて来ず全く相手をしないなどということが多々ありました。

父は母の気持ちも考えずに、勝手に、それも頻繁に人を家に連れて来る人だったので、母は本当に嫌だったと思います。

それでも父は母のご機嫌を取るでもなく、むしろその人達の前で恥をかかせるような事を言って苦しめ、余計に母の心を逆撫でしていました。

交通の便も悪く、家の中も片付いていないような我が家に、何故そこまでして父が人を招きたかったのか不明ですが、恐らく興が乗って気が大きくなったんだろうと思います。また、遠方から出張で来た人などには、ホテル代が浮くからという人情的な理由でわざわざ我が家に招いていたのではないかと思われます。

そんな時に、私はいつも母と父の板挟みになり、父の顔を立てるために私が客人の世話をするということになるのでした。

父の酒の席は、幕末志士や水滸伝とか三国志とかにありがちな、豪傑達が熱く語り合いながら酒を酌み交わすような感じでした(笑)。興が乗って演説をぶつ父を、いつも母は冷ややかな目で見ていたものです。

そんな席に、せっせと氷を運んだり、お酒を注いだり、おつまみを用意したりと、父の顔を立てる為、ひいては「家の顔」を立てる為に、私は立ち働いていました。

因みにそんなのをずっと経験して懲りた為か、私が結婚した人は全くお酒を飲まない人です(笑)。

そんな父が先にも書いた経緯で私の家に来た時には、もうすっかり弱ってしまい、「もう死にたい」「殺してくれ」「生きていても仕方がない」と繰り返すばかりでしたから、本当に憐れで悲しかったです。

父は私の家にいる半年間で聖書を読み始め、祈る生活をすることで元気を取り戻し、日々感謝を口にするまでになったことは以前にも書きました。本当に奇跡的な回復で喜ばしいことでしたが、こと母の話になると途端に顔を曇らせ、あの家には帰りたくない、と言うのでした。

父は母が嫌な態度を取ってくるのが理解できず、耐えられないと言うのです。自分が今までやって来たことや取ってきた態度をすっかり忘れてしまったからでもあり、心の奥底に記憶されている罪悪感とプライドがせめぎ合っていたのかもしれません。

そこで、私は父に、過去の様々なエピソードを話しました。私にとってはもはや普通のことなので、特に感情も動かずに事実を淡々と話したのですが、父は顔を真っ赤にして憤りました。

「そんなことをするはずない。そんな馬鹿なことを」

父は絶対に認めません。

絶対にお前の記憶違いだ!とも言われました(笑)何故そのように苦しめるようなことを言うのか、とも・・・

つまり今の父には、昔の自分がやってきたことが悪だったとわかるということです。

父はすっかり腰の低い善人になっていましたから、その頃の自分の行いを認めることはとても耐えられなかったのだと思います。

涙を流して、それは自分ではない、人違いだ、と言いました。

認知症なのだから、と片付けてしまえば話はそこで終わりです。しかし、気の毒ではありますが、事実は事実です。

その時私は、自分のこの記憶が父の悔い改めの為のデータベースなのだと気付き、ハッとしました。悔い改めることで罪をすすがれるのならば、これも神様が用意してくださった救いの御手なのだと思ったのです。本人が忘れてしまっては、悔い改めることは一生出来ませんから。

私は父にそのことを伝えました。勿論、自分が心から信頼できない人ならば警戒した方がいいけれど、信頼できる相手の話ならば信じてみたら、と。しかも私は娘であり、父が頼って身を寄せている相手なのですから尚更です。もし私が嘘を言っているなら、私が神様に裁かれるでしょうから、安心して神様に話し、悔い改めたら良いと父に伝えました。

また、母の恨み節は、私も聞くに耐えないと辟易としていたものですが、過去のデータベースだと考えてみれば寧ろ愛であり、感謝しなくてはいけないのだと思うようになりました。父は「悪人」だった頃の自分を忘れてしまったことも含めて、悔い改めたら良いのです。これは凄いことだと私は思いました。

・・・しかしまあ、そんなに簡単にいかないのが人間です。

父はなかなか受け容れられず、それを認めるくらいなら死んだ方がマシだと言い放ちました。

悔い改めることに、どうしてそんなに頑ななのでしょうか。

「自分は全く覚えていないけれど、過去の自分は酷かったらしい。それが本当ならばどうか赦してください。」

どうしてそのような心持ちになれないのでしょうか。プライドとは恐ろしいものだと、私は心から思いました。

段々と私は、このまま父を私の家で匿っているのが、何か違うと思い始めました。いくら父が母との暮らしを嫌がっていたとしても、母は彼の長年の妻であり、生きて存在しているのですから。

父がこうして生かされてきたのは、父と母がやり残してきた家族との向き合いの為だと思えてなりませんでした。

思えば父は兄の家に身を寄せていた時に、兄との向き合いをしてきたのです。さすがに兄は子供の頃に受けた暴力をそのまま返すことはしませんでしたが、完全に立場が逆転して父をよく叱りつけていました。父が萎縮して兄の顔色を伺う様子は、私の目には子供時代の兄そのものに映りました。

また、私の家に来て、私が過去のエピソードをこうして父に話して聞かせることで、私も心の重荷が取り除かれてサッパリしました。何か大きな預かりものを持ち主に返せたような心地です。

それに私がずっと望んでいた、父と子供達とが触れ合う時間も沢山得られました。子供達は父から将棋や囲碁を教わり、息子は父を負かすまでになりました。その得意な将棋も、認知症が進むにつれ指せなくなってしまいましたけど。

次は母の番だと思いました。

もしかしたら母の方が先に死んでしまうかもしれないし、もう最後のチャンスなのではと思ったのです。

私は父を母の家に帰すことにしました。

それを告げた時、父はションボリと肩を落とし、仕方ない、とつぶやきました。

母の元に帰る前の日の夜、父のお風呂を手伝いながら、しみじみと話をしました。

お母さんは、お父さんの記憶を預かってくれているんだよ。意図していなくとも、お父さんが失くしてしまった悔い改める為のデータを大切に保管してくれて、何回も再生してくれているんだよ。

だから逆に感謝して、苦しくてもちゃんと聞いて、神様に罪をすすいでもらいなよ。

父は静かに聞いていましたが、急に顔に理解が広がり、目に光が射しました。

そうか、そういう考え方なのか。ありがとう、ありがとう。やっとわかったよ。

なんでこんなに苦しめることばかり言うのかと思っていたけど、そうか、そうだったのか。

最後の日にこんな話をしてくれて、本当にありがとう。

父は湯船から手を伸ばして、私に握手を求めてきました。

握り返すと、昔の父の硬い大きな手でした。

奇しくも、その日は父の誕生日でした。神様は本当に大きなプレゼントを父に与えてくれたのだと思いました。

暫く私達は泣きながら握手をしていました。

それから3ヶ月の間、父と母の初めての濃厚な向き合いの生活が始まったのでした。

 

 

神様、あなたは必ず私達に道を用意してくださいます。

あなたが示してくださる道を、私は喜んで歩きます。

どうか主の御名がとこしえに讃えられますように。


父の気付き、母の一歩」への4件のフィードバック

  1. お父さんがお母さんのもとに帰ったんだよ~と簡単に伝えてくださいましたが、背景にはたくさんの事情があったんですね。
    認知症の方の、記憶をたどっていくと、本当に様々な過去が隠されています。行動にも理由があったりします。
    お父さんにゆっくり寄り添って、ごちゃごちゃになった紐をといて😢あやこさんに感動してしまいました。
    これ以上は、書けません。ゆっくり、私も振り返りたいと思いました。書いていただきありがとうございました。そんな気分です。書き終えたあと、ホッとされたのかな。それとも、疲れたのかな。

    では、また😊

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    1. よしみん さん、
      コメントありがとうございます。そして久しぶりでとても嬉しいです。
      昨日父に会いに行き、元気な様子にホッとしたところです。またそのことについても書きたいと思います。
      よしみん さんとご家族の皆様に神様からの祝福が注がれますようお祈りいたしております。

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  2. 素晴らしい記事を有難うございます。読ませていただきながら、自分自身のことや私の両親が重ったりして、涙がとめどなく溢れ、主への感謝が溢れてきました。このような心持ちを取り戻せるのも、あなたの悟りやあなたの祈りによって聖霊が溢れた言葉が紡がれているからだと感じました。本当に有難うございます。私のように愚かな者にも、あなたのような方を御使いになり、幾重にも救いの御手を差し伸べてくださる神様に感謝します。

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    1. ゆうきのでるこうちゃん梨さん、
      いつも温かいコメントをありがとうございます。
      誰もが父母への様々な思いを抱えていることと思います。信仰を持ってからは全く別の次元で見えるようになりました。神の御業を讃えます。
      ゆうきのでるこうちゃん梨さんに、神様からの大きな祝福がありますように。

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