遠藤周作の「沈黙」から思うこと

先日、古くからの友人達に、私が聖書を読み本気でキリスト教を信仰しているのだと話した時に、最近公開された映画、遠藤周作の「沈黙」を観たという話になり、とても複雑な気持ちになりました。

キチジローが窪塚洋介でイメージと合わないと盛り上がっていましたが、それ以上の違和感を私は「沈黙」という小説そのものに持っています。

この小説との出会いは、30年ほど前(ひゃー・・・)私が高校生の時のことです。

現代文のテストの問題文として、「沈黙」のクライマックスの部分が取り上げられていたことがありました。

私の母が彼のエッセイ「狐狸庵先生」シリーズが好きで家の本棚にあったので、私もよく読んでいたのですが、彼の小説に触れたのはその時が初めてでした。それはもう、物凄い衝撃を受けました。(因みに母は曽野綾子信者でもあり、イエズス会がよっぽど肌に合っていたんでしょうね。)

確か、農民の命を救う為に転ぶか、信仰を守るか、という神父の究極の葛藤のシーンだったと思いますが、私はそのあまりにも苦しい内容に、テスト中であるというのに涙が止めどなく溢れてしまい、誤魔化すのに苦労したのを覚えています。

その日の学校帰りに本屋に立ち寄り、文庫本を買って帰りました。

夢中で読み、魂から泣いた思い出があります。

それが、私の「キリスト教」との強烈な出会いでした。

私は心がえぐられながらも、何度も何度もこの本を読み、数年前までは間違いなく大切な本の一つとして挙げていました。

しかし、聖書を読むようになって、全く見方が変わってしまったのです。

本当に180度変わってしまいました。

長年、この小説から受け取ってきた悲哀や虚しさ、そして

「結局、神は救わない」

(というか、神はいないのではないか)

という、究極の裏メッセージのようなものを、この数年で手放すことができました。

そして、この小説は、キリスト教を上げているのではなく、下げているのだと気付いたのです。

キリスト教をテーマに掲げているからといって、必ずしもキリスト教の神を真に讃えているものではないのだという当たり前のことをそれまでずっと気付かずにいて、「沈黙」から読み取れるキリスト教を、「これぞキリスト教だ」と疑いも無く考えていたことを恥ずかしく思いました。

私達は歴史あるものを正しいと思いがちですが、むしろ逆で、雫が長い月日をかけて石をも穿つように、どんなに堅いものであっても破壊されている場合があるのだということを知らなければなりません。

真理が絶対なのであって、伝統が絶対なのではありません。

幸い、キリスト教の場合は聖書が万民に解放されており、それを読めば原点に立ち帰ることができます。しかも有難いことに、呪文のような言葉で俄かに意味を理解することができないお経などと違って、誰にでもわかる現代の言葉で書かれており、(深い真理まではすぐに悟れないとしても)読めば文章として意味のわかるものなのです。これは神様が残してくださった救いの道だと思いました。

聖書が改ざんされているとか、色々な説がまことしやかに語られていますが、私は改ざんされていないと思います。読めば読むほど、そんなことを神様が赦されるわけはないと心から思えるからです。神様が悪魔よりも絶対的に上だからこそ、聖書には手出しができないのだと思います。たとえ抜け落ちている箇所があったとしても、神様の御心が決定的に損なわれる程ではなく、きちんと真理を悟れるような形で残されていると思います。

だからそのような聖書改ざんに関する陰謀諸説は、単に聖書を疑わせる為の悪魔の蒔いた種だと思うのです。

そして、聖書の中で神が最も忌むべきものの一つとして掲げているのが「偶像崇拝」です。

人は本当に弱いので、目に見えるものでないとなかなか信じることができません。どんなに目の前で奇跡を見ても、大いなる神様の御力を感じても、何故か目に見えるものの方に心が流れてしまうのです。目から見える情報だって結局のところ脳が判断しているわけで、完全ではないというのに。本当におかしな話です。

旧約聖書の中で、神様がどれだけ繰り返し口を酸っぱくして諭しても、どんなに怒って恐ろしい裁きを与えても、人間達はのど元過ぎれば結局目に見えるものを作って拝んでしまうのです。旧約聖書はその愚かな人間達の記録と言っても過言ではないほどです。

そして新約聖書でも偶像崇拝して良いなどとは一切書いてありません。

なのに、本当に根幹とも言える、この「偶像崇拝をしてはいけない」という教えを、何故どうしてキリスト教の教会が率先して行なっているのでしょうか。

いつ、偶像崇拝をして良いと変わったのでしょうか。

私の娘が通っていたカトリックの幼稚園では、マリア像に手を合わせることが要求されました。マリア像に花を手向けたりすることが、聖なる行事として行なわれていたものです。

何故か私の娘はそれを嫌がり、あわよくば素通りしておりましたが、見つかれば戻って手を合わせてくるようにと促されるのです。

仏像を拝むのも、キリスト像を拝むのも、マリア像を拝むのも、天使の像を拝むのも、同じ偶像崇拝なのではないですか?

 

何故偶像崇拝をしてはならないのかという理由が、聖書の中に、繰り返し沢山出てきます。


《詩編115章より抜粋》

‥‥‥

国々の偶像は金銀にすぎず

人間の手が造ったもの。

口があっても話せず

目があっても見えない。

耳があっても聞こえず

鼻があってもかぐことができない。

手があってもつかめず

足があっても歩けず

喉があっても声を出せない。

偶像を造り、それに依り頼む者は

皆、偶像と同じようになる。


 

私には、

真に有益なことを話すこともできず、現実を見ることも、真実に耳を傾けることもできない。正邪の匂いも嗅ぎ分けることもできず、真理を掴むことも、それを求め歩くこともできない。更には助けてと声をあげることもできない。

そういう人になってしまうのだと感じられました。操り人形のような、奴隷のような存在です。恐ろしいことではないですか?

イエスキリストは新約聖書の中で、「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃっていますが、聴衆が偶像のような人ばかりだったのだと思います。

また、イエスキリストは耳が聞こえず舌の回らない人を癒していますが(マルコによる福音書7章31節)、これも実際にそのような病を治したのかもしれませんが、偶像のようになっていた人を救ったということなのかなとも思いました。

“お前たちは、神を誰に似せ    どのような像に仕立てようというのか。”

“お前たちはわたしを誰に似せ     誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。”

(イザヤ書40章「創造と贖いの神」より)

と、神様が仰るように、そもそも完全なる神様を人間なんかが形造ることこそがおこがましいのだと思います。

イザヤ書の中では繰り返し繰り返し偶像崇拝の愚かさについて語られています。


《イザヤ書44章9節  無力な偶像》より抜粋

“偶像を形づくる者は皆、無力で

彼らが慕うものも役に立たない。

彼ら自身が証人だ。

見ることも、知ることもなく、恥を受ける。

無力な神を造り

役に立たない偶像を鋳る者はすべて

その仲間と共に恥を受ける。

職人も皆、人間にすぎず

皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。

‥‥‥

木は薪になるもの。

人はその一部を取って体を温め

一部を燃やしてパンを焼き

その木で神を造ってそれにひれ伏し

木像に仕立ててそれを拝むのか。

また木材の半分を燃やして火にし

肉を食べようとしてその半分の上であぶり

食べ飽きて身が温まると

「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。

残りの木で神を、自分のための偶像を造り

ひれ伏して拝み、祈って言う。

「お救いください、あなたはわたしの神」と。

‥‥‥

彼らは悟ることももなく、理解することもない。

目はふさがれていて見えず

心もふさがれていて、目覚めることはない。

反省することもなく、知識も英知もなく

「わたしは半分を燃やして火にし

その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。

残りの木で忌むべきものを造ったり

木の切れ端を拝んだりできようか」

とは言わない。

‥‥‥”


 

本当に人間達やることは滑稽だなぁと思います。

神様が嫌っていることを執拗に行うことは、そもそも反逆以外の何物でもありません。

拝んでいるけど、神様を拝んでいないのです。

つまり偶像崇拝は、信仰を捻じ曲げ、神様への道を塞ぐ罠だということです。

 

「沈黙」の中で「踏み絵」が物語の大きな柱となっていますが、息子から、「だってそもそも絵は絵でしょ?」と言われ、ビックリしてしまいました。

もう、そこからズレていたのか、と。

そもそも私達がキリスト教だと思っていたものは何だったのか、と深く考えさせられます。

こちらを是非読んでみてください。

▶イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。

▶イエズス会とキリシタン大名が行った数々の悪行。彼らの信じる神は悪魔教の神「太陽神」と「八岐大蛇」でした。

▶フランシスコ・ザビエルと田布施システムの怪。明治維新は「清和源氏」の末裔による権力獲得のためのクーデターでした。

 

私は聖書を読んだことで、本当にテレビから流れてくるものが毒としか思えなくなりました。

偶像崇拝を促す、究極の媒体だからです。

目で見ることばかりを信じてしまう、愚かな人間に対する究極の洗脳装置だからです。

 

目で見えなくても、その大きな大きな存在を感じられる神様。

人間のちっぽけな目では、大きすぎて捉えることができません。

既に包まれているから、見えません。

本当に、全身全霊で神様の愛を感じ、感謝し讃えるだけです。

 

皆さんに神様からの祝福がありますように。

そして決して偶像と似た者となりませんように。

「エッファタ」

 


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