兄とダリア

私には2つ上の兄と7つ下の妹がいます。

妹は私が小学校一年生の時に生まれて、オムツを替えたりミルクをあげたりもしていたので、大人になってからも私はどこか母親のような気持ちで彼女を見ているところがありました。

また私にとって彼女の存在は、苦しかった子供時代の救いの光でもありました。

彼女が19歳の頃に、「親離れ」のような出来事があり、それ以来は彼女に対して親のような見方をすることは大分無くなりましたが、「姉」という立場と役割を完全に手放すことが出来たのはこの数年間のことです。「姉と妹」ではなく人間対人間になれたことは、本当に軽やかで幸せなことです。そして時を同じくしてクリスチャンになった妹は信仰の上の真の「兄弟姉妹」の一人でもあります。

妹とは勿論、互いに様々な葛藤やわだかまりもありましたが、ずっと苦楽を共にし、お互いが手を差し伸べ合って助け合ってきた戦友のような仲間のような意識があります。

一方兄のことを思うときは同じ兄妹でも全く別の思いが湧いてきます。表面上はとても尊敬し、仲良く平和に過ごしていたのですが、私の偽善に覆われた分厚い心の奥底では兄に対する嫌悪と憎悪と怒りと蔑みが常に存在しており、本当に長い年月苦しめられ、それを見ないようにしていた自分がいました。

兄は子供の頃から優しいところも頼りになるところも沢山ありましたが、心の中には「嘲笑」「蔑み」という名の悪魔が住み着いていて、そのターゲットは常に私でした。今思えば私の育った家庭の中心に大きな悪魔が棲みついていて、私達は完全に支配されていたのだと思います。

私の子供時代の家庭から連想する言葉は、

嘲笑、蔑み、折檻、悲嘆、嫉妬、焦燥、卑屈、狡猾、偽善、不安、悩みetc・・・

これらのものが常に台頭し、平安、喜び、慈しみ、楽しさ、優しさ等はせっかく頭をもたげても覆い隠されてしまうのでした。また、それらの善いものは単体で存在することは無く、常に上に挙げた悪なるものとセットになっていたのです。

私は子供の頃、兄から事あるごとにからかわれ馬鹿にされて、本当にいつも泣かされてばかりでした。私の卑屈さや弱さ鈍さが余計にそれを増長させていたのでしょうが、私には理解できず、どうして兄はそのようにわざわざ火種を作るのかと、子供心に思っていました。

振り返ってみると、父にこてんぱんにされていた兄は、その闇を私に向けるしかなかったのだと思います。私が泣くのを面白がって、もっと激しく泣くように焚きつけるのが上手でした。そうすると、泣き声が嫌いな父母は苛立ち、「そんなことくらいで泣いて」と私が怒られるという現象が起こるのです。私は神経質で泣き虫な自分も大嫌いでしたが、「男の子なんだから仕方ない」「男の子はそういうものだ」で済まされることに常に理不尽を感じていました。

そして兄は私が大切にしているものを台無しにしたり、私が傷付くポイントをよく知っていました。兄は兄で、妹に対する憎しみを持っていたのだと思います。

私が10歳くらいの出来事です。母が棄てたダリアの球根を私が拾って育てたことがありました。母には多分無理だよ、と言われましたが、その時の私は絶対に咲くと信じることが出来たのです。

来る日も来る日も水をあげ、芽が出ますようにと祈り待ち焦がれながら世話をしていると、なんと本当に芽が出たのです!

神様が本当にいて、私の願いを叶えてくれたのだと思いました。

私は嬉しくて嬉しくて、毎日楽しみに世話をしていました。

すると、葉を茂らせ茎が伸び、それはそれは大きな真っ赤な大輪のダリアが咲いたのです!

これには母も驚いて、一緒に喜んでくれました。それ程に見事な花だったのです。

お日様のような深紅のダリアの花を私はうっとりと眺めていました。これ以上美しい花なんて無いのではないかと思いました。

しかし、次の瞬間、なんと兄が背後から石を投げて、それがあろうことかダリアの茎に見事に命中し、ポッキリと折れてしまったのです。

目の前で自分の大切にしていたものが台無しにされる瞬間は、まるでスローモーションのようでした。今でこそ記憶は薄れてしまいましたが、ずっと長い年月、私の脳裏に焼き付いて離れませんでした。

その時、火が付いたように泣く私を見て、焦るでもなく、恐れるでもなく、なんと兄はゲラゲラと笑いながら、からかいの言葉をすら投げつけて逃げていったのです。

私は本当に信じられませんでした。何故そのようなことができるのか、何故そこで笑えるのか、理解する事ができませんでした。彼には心が無いのか、と思いました。

母に訴えても、満足に兄を叱っていたという記憶はありません。少なくとも兄は反省していませんでしたから、いつもの「男の子だからしょうがない」という謎の論理で片付けられていたのだと思います。逆に、いつまでも恨んで泣く私が怒られ、いい加減に許しなさい、となるのでした。唯一、まだ小さかった妹が、正義感丸出しで私を庇ってくれていたのを思い出します(笑)

母は、普段から父に虐げられている兄を、自分までもが厳しく叱るのは不憫だと思っていたのかもしれませんし、男兄弟もおらず、女手一つで育てられた母は、男というものを意識しすぎていたのかもしれません。「男」である前に「人間」であるというのに。

また、「男の子は元気で腕白なのが良いのだ」という勘違い教育論のなせる業だったのかもしれません。元気で腕白なことと、善悪の分別は全く別次元のことであるのに。

この出来事は本当に象徴的な出来事でした。この深紅のダリアは私達家族の罪を象徴しているのです。

我が家の罪は、兄の悪なる芽を摘むことが出来なかったこと、善の芽と悪の芽を一緒くたにして両方を大きく育ててしまったことです。彼の善はいつも悪とセットになっており、単体で存在することがありません。それこそが長年彼を鬱という病で蝕み、今現在も苦しめ続けているのだと思います。兄は神様に裁かれているのだと思います。


≪箴言17≫より抜粋

悪い者を正しいとすることも

正しい人を悪いとすることも

ともに、主のいとわれることである。

……


そしてこの悪を悪として滅ぼし尽くさないことの連続が、後に兄を決定的な大きな罪へと向かわせることになりました。犯罪ではありませんが、人間として本当に忌まわしい大きな罪です。しかし、悲しいことに彼にはその罪の重さが十分に分からないのです。

厳格すぎる父、鬱病の母の元で育った私達兄妹はそれぞれが枯渇して歪み、闇を抱えて成長していましたから、兄だけが悪というわけではありません。

ただ、悪魔が彼を選び、今でも取り憑いて彼の善の枝を抑えて蔓延っているのです。

罪は神様に悔い改めることなしには、決して赦されず、すすがれません。

兄が神様の御前に出て額づき、心から悔い改めることが出来ますように。

兄の救いを心から祈ります。

 

本当に長い年月をかけて、辛抱強く私を導いてくださった神様に、感謝と心からの讃美を送ります。

 

主よ、どうかこの世をあなたの光で包んでください。

 

皆さんの毎日が神様と共にありますように。

 


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