授業参観で思ったこと

先週、娘の授業参観がありました。

小学2年生は、まだまだ無邪気で可愛いばかりです。

今回は算数。竹の物差しで色んなものの長さを測るという学習でした。

それぞれ真新しい竹の物差しを机に置いて先生の話を聞いています。

しかし娘のお隣さん(男の子)は、一人ひたすら物差しの数字の赤い穴に鉛筆を突っ込み、火をおこすような手つきでグリグリと両手でねじ込んでいます。

そのひたむきな様子に思わず笑ってしまいました。

なんというか、ものすごーく懐かしい風景だったのです。ザ☆小学生!という感じでした。ここまでは、ほんわか話です。

さて、お隣の席の子とペアになって、教室中の色んなものの長さを予測して実際に測り、紙に記入していくという課題が始まりました。子供達はそれぞれのペアと、ワイワイ席を離れ、黒板消しやらクレヨンの箱やらチビたチョークなんかを測っていました。しかし、娘のお隣さんは全く意に介さず、娘にちょっかいを出したり、好きなことをやっています。

先生が度々来ては小声で注意していましたが、注意すればするほど捻くれて悪化し、とうとう紙を自分の机にしまいこんでボイコットを決め込みました。

そしてまた、グリグリ火起こしが始まるのです。(しかもこの物差し、先生からの借りものでした。)

先生は困り果て、ついに娘に一人でやるように言い、娘は新しい紙を渡されて一人で課題をやっていました。

お隣さんは、それも気に入らないらしく、またまた娘にちょっかいを出して気を引くのでした。

あー、何だろう、ものすごく知ってるぞ、この光景・・・でも、何かが違う。

授業中に机に穴を開けたり名前を彫ったり落書きしたり、そういうのは私の小学生の頃のよくある風景でした。(私もやってました。)だから、火起こしグリグリは、何だかむしろ懐かしく、微笑ましい感じがしました。

でも、先生から再三注意されて、気分を害し、斜に構えて「んじゃあヤンネェよ!」(ヤンキー口調)にはビックリでした。これは小学生では無かったなぁ、と。

あどけない声や顔にヤンキー口調は似合いません。

性経験の低年齢化もさることながら、ヤンキーも低年齢化かぁ、と何だか悲しくなりました。

近年、学級崩壊とか現代っ子の問題をよく取り上げられているけれど、注意散漫で手遊びしたり窓の外見たり好き勝手しちゃう子は30年前にもいっぱいいました。そんなのは今に始まった事ではありません。

むしろ、昔の方がいっぱいいたような・・・

でも、昔と今とどこが違うのかというと、先生が厳しくできない点だと思いました。そして反抗の仕方が違います。

昔なら立たされたり、廊下に出されたり、ゲンコツされたり、怒鳴られたり、かなり厳しく怒られていましたね。(現代でもカツオ君だけはいつもゲンコツされて廊下に立たされているようですけど。)

それが必ずしも良かったとは言えませんが、(先生によって差がありすぎましたし、不条理も多々ありましたから)でも、少なくとも学級崩壊にはなっていなかったと思います。

先生が手出しできないのを小さな子供が見透かしてどんどん図に乗る様は、とてもサタン的でした。

どちらに於いても度が過ぎるのがいけないのであって、悪いことを悪いことだと分からせることは、物凄く大事なことだと思うのです。

口で諭しても分からないのなら、時には怒鳴ったりゲンコツお見舞いしたり頭をはたくくらいの体罰も必要だと思います。

先生があなたのことで、今めっちゃ怒っているのだ、ということは伝えないと。(昔の熱血先生の往復ビンタや竹刀振り回すのはどうかと思いますが・・・)

とにかく先生が、やりにくそうでした。

ゆとり教育を始めた人達の罪は本当に大きいと思いました。

このゆとり教育、私はてっきり、キリスト教的な精神なのだと勘違いしていました。キリスト教は穏やかに微笑み、寛容に赦してばかりなのだという印象があったからです。

しかし聖書を読んでみると、むしろ悪に対して毅然としていますし、その厳しさは半端ありません。

神の法を守らない者は石で打ち殺されてしまいます。恐ろしいです。

敵(神の目から見て悪)は徹底的に殲滅します。

中途半端に容赦して後々大変な罠となり、後世の人々までも災いに見舞われてしまうという歴史が旧約聖書には累々と記されています。

新約聖書の中でも、イエス様は上辺だけの信仰者(律法学者)達の悪い心に対して、彼らの痛い部分を剣のように突き刺す言葉で応酬しています。

決して微笑んで寛容に受容れ赦す、だけではないのです。

さすがに石で打ち殺すのは現代ではあり得ませんが、とにかく悪を行えば厳しく罰せられるのだ、ということを徹底的に伝え続けるべきだと思います。

子供が親の手元にいる時期は20年足らずですから、人生で見るとほんの少しです。その中で親の言葉がしっかり入る時期はその半分くらいの期間でしょうか。そう考えると、この毎日が聖戦であり、本当に真剣勝負だと思いました。

今のうちに善悪をしっかりと叩き込んでおかないと、と改めて思いました。

それも、人間の価値基準の中で時と場合に応じて変幻していく善悪ではなく、神様の目から見た絶対的な善悪を、です。

それを受け取る受け取らないは結局本人の問題ですが、伝え続けることは決して止めてはいけないのだと。

 

善悪が分からないことは不幸です。そして、きっちりと叱ってもらえないことも。

注意されればされる程増長してしまうのは、しっかり怒ってもらえず、毅然と罰してもらえないから、サタンを追い出そうにも追い出せなくて霊がもがいているようにも見えました。

自分がすべき事もやらずに、思い通りにいかないことで拗ね、「自分は嫌われている、誰にも分かってもらえない」と思うのは自分勝手以外の何物でもなく、それがまかり通る訳はありません。それがまかり通るのなら、世の中が間違っているのです。

まず拗ねる前に自分自身を点検しろ、ってことですね。

もし、善を行なっているのに攻撃されたり排除されたりするならば、それは迫害です。

いずれにしても神様の御前に出れば、ただの自分勝手な捻くれなのか、真の迫害なのかは明白になります。

 

かく言う私も、毎日自分自身の点検中、沢山の悪や罪を見つけて愕然とします。

覚悟の無さ、怠惰、不実行、偽善、これらの悪や要らない価値観を捨てたつもりが、しっかりスペアを隠し持っていたり、一部分だけとってあったり。

そこそこのところでいつも終わらせていた自分から、いい加減卒業したいです。

 

我が子の授業参観の小さな出来事で沢山のことを教えて頂きました。

 

主よ、あなたの御心が護られますように祈ります。

私が神様の御心にかなう者となれますように。

 

 

皆さんに神様からのお導きがありますように、心からお祈り致します。

 

 


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