神様と共に生きること

RAPTブログの読者の方の中で、全ての記事をプリントアウトして持ち歩いているという方がいらっしゃったのを思い出し、私もプリントアウトしておこうと思いました。

まずは有料記事をと思い、2015年8月の有料記事からプリントアウトしてファイリングしています。

初期の頃は音声は少ないのですが、10月頃から対談という形で音声の記事が入ってきます。11月は殆どが音声入りです。

初期の頃の有料記事から読んでいくと、本当に自分の信仰のずれや足りなさ、勝手な思い込みがあったことを思い知らされます。

自分の人生を辿りながら、自分の信仰を辿りながら、以下の有料記事の対談をしみじみ聴きました。

原点に帰らせてくださったことに感謝いたします。

〇VOL.20 神様を主人として愛するか、父親として愛するか、恋人として愛するか。

皆さんも是非聴いてみてください。

最近有料記事は益々核心にきており、最新のものから聴いて(読んで)しまうと良く飲み込めないと思いますので、初めて読まれる方は古いものから順に読んでいくことをお勧めします。(初期のものは音声が無く記事のみが多いです。)

読めば(聴けば)目から鱗が落ちてスッキリするはずです。

上にあげたリンクの中でも言われていますが、とにかく一人一人の信仰が問われているのだと思います。

最近の有料記事と言っている内容はベースの部分で同じなのですが、こちらはダイジェストという感じで耳に優しく、他人事のように聴いていて頭だけで理解した気になっていたのだということがよく分かりました。

本当に最近の有料記事では、明らかに「自分ごと」なのだ、と思い知らされますから。

本当に安逸な暮らしにしがみつき、それでいて日々悩みながら後悔しながら生きていくのではなく、捨てるべきものを捨て、真にやるべきことを行なって喜びながら生きていく人生を歩んでいきたいと思いました。

では具体的にどうするかとなると、まだわからず、そんな自分が情けなくも思えますが、これも神様に祈り求めていかなくてはいけないのだと思います。

見直してみると、私は捨てるべきものをあまりにも捨てておらず(勝手に捨てたと思い込んでおりましたが)精神的なものはおろか、物質的なものも手を付けていないものがあまりにも沢山ありました。

やっと先日、亡き次男の胎内ビデオや当時のカレンダーなど、自己憐憫を誘うだけで絶対に見るわけないものを捨てることができ、勢い余って埋火葬許可証までも捨てそうになりました。これは一応散骨などをして完全に骨が無くなるまで持っていないとですね。

次男のお骨もいつか散骨したらいいと思って、夫に相談すると、露骨に嫌な顔をされました(笑)。そんなこと今考えることではないと・・・ではいつ考えることなのか?!

こういった話から、なるべく遠ざかりたいのですね。

私自身、死んだ子供にすら、こんなにも執着していたのに、生きている自分の子供ならば尚更です。

「神様の御名の為になら、子供すら捨て、家族すら捨てられるようになる。」

こんなことを言うと、今の日本だと狂信的で頭おかしい人と思われそうですが、論理的に考えれば考えるほど、物凄く理にかなったことだとわかります。

「神様を信じているのならば」が、前提条件ですけど。

神様を本当に信じているのならば、神様が悪魔よりも強いことを信じることができるわけで、私が神様を完全に信じていさえすれば家族も護られ祝福を受けるということになります。

悪魔や災いを恐れることは、神様を信じきっていないことになってしまいます。

また、逆に神様から離れてしまえば家族を危険に晒すことになるわけです。

そして悪の滅びを祈っている以上、たとえ家族であっても悪を行うのであれば徹底的に闘わねばなりません。可愛い我が子であれ、いや、可愛い我が子であればこそ、悪を裁くことこそが愛です。

 

だから、結局どうしたって家族よりも神様が上になるのだということですね。

 

私達親が子供達に遺してやれる本当の財産は、善悪を見極める力、これだけだと思います。後々その財産を子供達がどう使うのかは、私達親が関知することではありません。子供達が神の道ではなく、自ら悪の方に惹かれ地獄巡りを選ぶならば、それは彼らの人生なので仕方のないことです。

だからといって責任を放棄するという意味ではなく、そうならないように、手元に子がいる間は、嫌がられようが聴く耳持たなかろうが、常に伝え続けていかなくてはと思います。

捨てる=執着を断ち切る、ということですが、これは並大抵のことではありません。特に私は子を亡くした経験も手伝って、子への執着が強烈でした。

でも、今は本当に大分執着が外れて、必死で引っ張ってやろう、道を整えてやろう、一緒にやっていこう、という気持ちも無くなりました。

すると逆に子供達はしっかり自分で立ち、自分で解決していくのですね。本当に無駄な一手間をかけて子供達の成長を阻んでいたのだと気付かされました。

ただ、「神様」という軸が無ければ、単なる放任主義となってしまい、それはそれで危ない橋だと思いました。母親(父親)の意向を汲んで「良い子」をするにしろ、逆に反抗して敢えて違う道を選ぶにしろ、軸が親であるならば、その親が不完全で間違いだらけである以上、どちらにしてもブレブレで、茨の道であると思いました。まさに私の人生そうでしたから。

だから完全である神様に委ねるのだ、ということが、最近やっと真の意味でわかったような気がします。

 

神様がくださるものは良いものしか無いのですよね、本当に。

全てにおいて神の御名に於いて行なう、これに尽きると思いました。

 

神様、こんなのろまな私を辛抱強く導いて下さり有難うございます。

 

神様、あなたの御名を讃えます。

 

皆さんに神様からの祝福がありますように。

 

 


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