お葬式を考えるvol.2

最近、「マイ骨つぼ」なるものが流行っているようですね。

その記事はこちら

私も子供を亡くして骨つぼを買って自宅に置いているので(お葬式を考える)、へぇと思って読み始めた記事ですが、どうにも違和感が拭えませんでした。一見同じように見えますが、大きく違うところがあります。

それは、我が家の場合は遺族である私達の意思で行なっていることですが、マイ骨つぼは自分で用意するという点です。

 

私たち家族は、自分たちの悲しみに向き合い乗り越える為に勝手にやっていることです。亡くなった息子に頼まれたわけではありません。

 

「お気に入りの服を選ぶような感覚で、自分の入る骨つぼを選ぶ・・・」(上の記事より)

 

そのとき自分は死んでいるのに?

 

 

自分の死後、自分の骨がどう扱われるか・・・それ本人の意思が重要でしょうか?

遺族の心の問題じゃないのでしょうか?

そこまで自分の足跡を残したい、死んだ後も自分の個性を残したい、という自己顕示欲(?)に違和感を覚えてしまいました。

そこに、いつまでも子々孫々を縛り付けていく呪縛のようなものではないのかと。

結局、形が違うだけで、お墓と同じだなぁと。

どの宗教でどういう風に送り出して貰いたいのか、という意向は伝えておく方が良いと思います。きっと理解してもらえたなら、そのように葬って貰えるでしょう。しかしそれも遺された者たちが執り行うことであり、死んでいる以上どうすることも出来ませんけどね。

記事の中にありましたように、息子や娘が自主的にプレゼントしたりするのは良いのかもしれません。親の骨を形見に持っていたいという人の心も理解できますから、とやかく言うつもりはありません。

しかし、

”「死後のすみかを吟味する幸せ」。最後まで自分らしさにこだわる。”

の一文に、ゾゾーッと何かしら寒気を感じてしまいました。

自分達の葬式をどうするのか、親の葬式をどうするのか、日本人は「無宗教」ゆえにあまり考えることをしません。私の夫もそうですが、なるべくその手の話は避けたいと願う民族ですね。

「その時」が来たら考えればいい。

そんな風に思っているから、「一般的な」「普通の」レールに乗せられちゃうんですよね。

「初めてのことでよく分からないから、プロにお任せしよう」

というように。

まあそう考えると、「マイ骨つぼ」は一段階先を行くものなのかもしれません、そういう意味では。

生きているうちに考えているだけマシです。

でもその発想自体があまりにも物質的で、現世の頭の発想から抜けきれていないなぁと、そこにかける情熱に虚しさを感じてしまう次第です。

「終活」は、必要と思います。自分のものは自分で片付ける、これ基本です。特に親は子に散々言ってきたことなのですから、自分自身もそうしましょう、と思います。

でも、仏壇をいくらオシャレにしようが、洋室に合うようにスタイリッシュにしようが、骨つぼが可愛かろうが、本質的なものが全く変わっていません。顔だけ付け替えて、本質的なものに目を向けないように巧妙にすり替えられているだけです。

ミーハーな日本人、そんなものに乗せられてはいけません。

日本人はどうも、仏教だと安心するようですね。日本=仏教だと、全く無宗教の人でも深く刷り込まれています。だから新年の祝いは神道でやっても、クリスマスを祝っても、葬式は仏教で行なう人が多いのですよね。子供の頃から寺院や仏像を「これぞ日本の文化だ」と教育されているわけですから、当たり前にそうなります。

普段全く信仰から離れている人も、律儀に実家の宗派を辿って、先祖の流儀に従って葬式を行なうわけです。

でも何故、先祖の流儀に従わなければならないのですか?

先祖が間違っていたら、どうするのでしょうか?

 

今はお葬式も新スタイルが続々と出ていますから、皆さん試行錯誤して必ずしも仏教式ばかりではありませんが、何か突き抜けきれていないものを感じてしまいます。

それは、信仰というものがお座なりになっているからです。

本来人間は信仰無しには生きていけないと思います。

その証拠に、完全なる無宗教という人に、私は未だ嘗て会ったことがありません。どんなに「自分は神様を信じていない」とか言っている人でも、初詣に行ってみたり、御守りを持っていたり、手首にパワーストーンのブレスレットを付けていたり、何かしらを拠り所として信仰に関わっているのです。

つまり無宗教だと錯覚しているだけです。

そんなだから、浮遊霊のように、あっちフラフラこっちフラフラしてばかりいるのです。

 

信仰は自分で選ぶものです。

親からの受け売りや、先祖代々や、その土地の伝統や、そんなもので縛られるものではありません。

もっと信仰について日本人は考えるべきです。もっと学ぶべきです。

 

神様にしっかりと繋がれば、神様の元(天国)へと行きます。

骨は・・・ただの骨です。地上に残る物質です。

イエスキリストは十字架に架けられ、その遺体はイエス様を信じていた金持ちの議員ヨセフという人の手によって、綺麗な亜麻布に包まれて新しい墓に葬られました。このようにイエスキリストの遺体は周りの人によって敬意を持って大切に扱われました。

その墓は岩に掘ってあり、大きな石を転がして入り口が塞がれました。マタイによる福音書の中では、三日後にイエスが復活するという預言が弟子たちによって捏造されないようにと、番兵が墓の石を封印して見張っていたと書かれています。

しかし後日香油を塗ろうと婦人たちが墓へ行くと、石は取り去られ、遺体は墓の中にありませんでした。

そして天使が現れ、イエス様が復活したと伝えられました。

主なる神様は、人間が物質に執着することをよくご存知ですから、イエスキリストの遺体(骨)を遺さなかったのだと私は思いました。

そうやって物質に寄り縋り、信仰がどんどんずれていくことを防がれたのだと。

そしてイエスキリストは、この世のものを全て捨て去りなさい、という教えを、身を以て示してくださったのだと思います。

 


《ヨハネによる福音書1章》

”   初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである。』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。”


 

これが今、本当に心に響きます。

こうして私達が寄り縋るべきものが何なのかを教えてくださっています。

 

まさに、主なる神は生きておられます。

神様、あなたの御名を讃えます。

 

 

皆さんが真の神様を見出し、付き随う者となりますように。

 

心から祈ります。


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