「いつでも姉目線」からの脱却

皆さんには兄弟(姉妹)がいますか?

私は以前にも書きましたが、3人兄妹の真ん中っ子(長女)です。

今のご時世、一人っ子も非常に多いですが、兄弟・姉妹の関係性は誰にとっても身近なテーマだと思います。

テレビなどでも一時期盛んに、長男あるある、末っ子あるある、一人っ子あるある等、特性を分類したりしていましたね。

 

聖書を読んでいると、実に沢山の兄弟や姉妹が出てきます。それはもう、数え上げたらきりがないほどに。

そして、それぞれの兄弟姉妹に、考えさせられるドラマと課題があります。

ヘタに小説やテレビドラマなんかを観るよりずっと生々しく、あからさまな人間模様です。

本当に人間の営みは昔も今も全く同じなのだなぁと、聖書を読んでいるとよくわかります。

 

愚かな姉の言うことを疑わず、姉と同じ罪に身を汚す妹(ロトの娘達)や、自分の持っている権利の価値を分からずに一時の空腹を満たす為にあっさり譲渡してしまう兄(エサウ)、夫を巡って張り合う姉妹(レアとラケル)などなど様々な形があります。

しかし多くは、先に生まれたというだけのプライドばかりが高い兄(姉)が、自由かつ純粋で親や神様から愛を得ている弟(妹)を妬むという構図だと思います。「自分はこんなに頑張っているのに!」という心に捉われて、弟や妹に注がれる愛が不当に思えてしまうのです。その始祖であり、最たるものがカインで、彼は弟アベルを殺害してしまうのです。これは以前にも書きました。(子育てについて考えてみる

また、ヨセフはヤコブの愛息ですが、神様からも父親からも特別に愛されていました。それ故10人の兄たちに妬まれ、命を奪われそうになりました。彼が兄たちに受けた仕打ちについてはこちらのブログでとても分かりやすく説明されているのでご参考ください。

 

また、マグダラのマリアは誰でも知っている人物だと思います。彼女は元々遊女で、イエス・キリストに七つの悪霊を追い出して貰った女性ですが、自分の大切にしていた高価な香油の壺を割り、イエス・キリストに注ぎかけ、自分の髪でその足を拭ったと書かれています。復活したイエス・キリストがマグダラのマリアの前に最初に現れたというのも有名な話です。そのことについては以下の記事をご参考ください。

〇RAPT有料記事182(2017年6月19日)なぜ主の遣わした中心者は、いつも十字架の道を行ってしまうのか。

実は彼女にはマルタという姉がいました。


《ルカによる福音書10章38節 マルタとマリア》

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、私の姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


 

初めてここを読んだ時、マルタは私だ!と思いました。

「私だってイエス様のお話を聞きたいのに。私ばっかり働いて、マリアばっかり好きにして・・・

(おーい、マリア、気付けよ~!察しろよ~!・・・ていうか普通、少し代わるとか、せめて手伝おうとかするよね?あり得ないんですけど〜。)

そうは思いませんか?!私、正しいですよね?」

・・・そんな心の声が聞こえて来るようでした。

尊い方に失礼があってはいけないし、心尽くしのおもてなしもしたい。しかも完璧にしたい。その心の狭間で揺れに揺れ、直接マリアにではなくイエス様に訴え、ついでに自分の正しさを認めてほしいマルタ。イエス様を使ってマリアを動かそうとするマルタ。

 

なんかもう、私か?!と。

 

しかし今の私は、マルタのように思わなくなりました。

自分のこだわりを握りしめて、それを他人にも求めてしまう過去の私。そのこだわりこそ捨てるべきものなのだと気付いたのは、大分後になってからでしたけど。

大体において、イエス・キリストをおもてなしすることは、それ自体があり得ない程の祝福だから、忙しく立働くことは喜びでしかないよなぁと思うのです。

たとえ全く話に参加出来なくても、そんなことは何の問題でもないです。きっと聞くべき話があれば、主が聞けるように計らってくださる筈ですし。

 

本当に無駄な損得感情に支配されていたなぁと、つくづく思います。

そして本当に、今の私になれてよかったです。

 

更に、「放蕩息子のたとえ」《ルカによる福音書15章11節~》もまた、身につまされます。

長いので以下に要約しますと・・・

ある裕福な人に二人の息子がいましたが、弟の方が財産の分け前を今すぐ欲しいと要求し、それを全てお金に換えて旅に出て、放蕩の限りを尽くします。全て使い果たして困窮した弟は物乞い同然に身を落としますが、我に返って自分の所業を悔い改め、父の元に戻り、下僕として雇ってくれるよう頼みます。

すると父は怒るどころか遠くから息子を見つけて駆け寄って抱き、一番良い服を着せ、祝宴を設けてやるのです。

それを見た兄は怒って不平を言います。自分は父親の言いつけを守り、ずっと仕えてきたのに、一度もそのような待遇をして貰ったことがない、と。不真面目な弟に対するその待遇は一体何か、と。

父親はそんな兄に対して、言います。「あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と。

 

これを初めて読んだ時の私には、さっぱり訳がわかりませんでした。寧ろ酷いなと思ったくらいです。

すっかり兄の気持ちで読んでいて、「これが許されるのなら、やった者勝ちじゃん」と腑に落ちず、この兄と一緒に不平を漏らす構えでした。(神様ごめんなさい)

しかしその後もその意味をずっと考えていて、(時には忘れながら)日々を過ごしていたある日のこと、電撃的に気付いたのです。

・・・あ、放蕩息子は私か、と。

私はいつも姉目線、長女目線で、自分は常に良識と分別があると思っていました。できてる、頑張ってる、一生懸命生きてる、と信じて疑いもしませんでした。本当に傲慢で高慢の罪にどっぷりですね。

 

神様の目から見た時、この私こそが神様から頂いた自分の命や身体や環境や才能を当たり前の自分の権利として受け取って、自分勝手に使って、色々台無しにし、無駄遣いして、罪を犯し、サタンにさんざん奪い取られ、やっとその有り難みを分かって悔い改め、今に至るのですから。

私は今までどれだけ神様をヤキモキさせ、悲しませ、苦しませてきたでしょうか。

それなのにその私を、神様は本当に走り寄って迎え入れ、抱き、良いものを沢山与えてくださいました。

 

帰ってきました、私。

神様の元へ戻ってまいりました。

本当に本当に祝福をありがとうございます。

 

神様の前では、私はただの一人の小さな愚かな人間でしかなく、立場や生まれ順や背負っているもの抱えているもの培ってきたものなんて本当に取るに足らないものなのだと思い知りました。そして、そのように見て受け容れてくださる神様に心から感謝が溢れます。

本当の意味で「姉目線」から脱却できた瞬間でした。

 

主よ、どうか一人でも多くの人があなたの御元に立ち返ることが出来ますように。

 

皆さんに神様からの祝福がありますように。

 

心から祈ります。

 

 

 

 


「いつでも姉目線」からの脱却」への2件のフィードバック

  1. 目から鱗です!
    すっかり、兄目線で読んでいたので、腑に落ちないなぁと思いながら読んでいました。
    その通り、私こそひどい放蕩息子です。なぜ、気づかなかったのか。。
    神様が私を見放さず、raptブログに繋げて下さったことに感謝します。
    まだまだ、信仰が揺らぐことが多く、兄弟姉妹たちのブログには本当に励まされます。
    ありがとうございました!

    いいね

    1. レミさん、
      コメントありがとうございます。
      私の拙いブログが気付きのきっかけになれましたことを嬉しく思います。何よりの祝福です。ありがとうございました。
      本当にRAPTブログに出会え、神様を知ることができて感謝と喜びの日々ですよね。
      これからも共に御心を成す為に励んでいきましょう。
      レミさんが主の霊に包まれ、豊かに聖霊が注がれますようにお祈り致します。

      いいね

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