神様を愛せることの喜び

私は幼い頃からとても敏感な子供でした。人の心の動き、とりわけ悪意に対してとても感じやすく、小さい頃からそれによって非常に苦しみました。自分に向けられたものは勿論のこと、人に向けられたものも敏感に察知してしまうからです。

私はずっとその超敏感なセンサーを取り外してほしいと心から思っていました。そんなところが無駄にハイスペックでも、何の良いこともありませんでしたから。人間関係を潤滑に楽しくする為には、その能力はどこまでも妨げとなりました。

鈍感であったなら、どんなに毎日が楽しく、楽だったろうと思いました。分厚い心の皮と何も疑わない無邪気さが、喉から手が出るほど欲しかったです。

でも今振り返ってみると、それはそれで良かったんだと思えます。奥の方にある人間性を見てしまう為に、大人からは「子供らしくない」とか「冷めている」と煙たがられ、あまり好かれませんでしたが、その分人間に対する過度の期待感も無く、人を崇拝したり共依存の関係に陥ることもあまりありませんでした。

人と行動を共にするのを心から渇望していたにもかかわらず、実際にはとても苦手で、ポツンとしていることが多かった私。どこにいても誰といてもどの集団の中にいても「私は異質だ」と感じ、属していない感覚を抱えていました。

それは神様が人と繋がるのではなく神様と繋がるようにと、答えを教えてくださっていたのだと今はわかります。

また、言葉尻や言葉の強さに捉われることなく、その人が何を言わんとしているのかを感じ取ることが出来るのは、本当に神様からの賜物だと感謝しています。

私は過去の傷や苦しみを癒す為に信仰を持っているわけではありません。

勿論きっかけは艱難苦難や波瀾万丈の半生でしたが、それはあくまでも信仰へのきっかけにしか過ぎません。真理があるので此処にとどまっているのです。

だから寧ろ過去の傷や苦しみに感謝すらしているのです。それが無かったら此処にたどり着けなかったからです。

神様に繋がれるのならば、如何なる艱難苦難も祝福に変わります。

 

今日は、イエス様とニコデモというファリサイ派議員との問答がとりわけ心に沁みわたります。

《ヨハネによる福音書3章16節より》

「‥‥‥‥‥‥

神は、その独り子(イエスキリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

 

私達が新たに生まれ、一人一人が光に属する者となれますように。

 

心から祈ります。

 

 


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