食べることは

聖書を読んでいると、よく「断食」という言葉が出てきます。

自分の罪の深さに打ちひしがれ、本当に罪を悔い改めて祈る時、粗布を身に纏い、灰をかぶったり灰の上に座したりして祈るのです。

そうして神様の御前に罪の赦しと救いを乞うのです。

それが神様の目に留まった時、神様は慈しみ深く受け入れて下さり、裁きの手を止めて下さり、敵を滅ぼしてくださる話が聖書に何度も出てきます。

特に印象的なのが旧約聖書のヨナ書にあります。神様がニネベの町(アッシリア帝国の後期に首都となった都)を滅ぼそうとお決めになり、預言者ヨナを遣わしたところ、(途中有名な逸話が色々あるのですが、そこは割愛します。)ニネベの町の人々は神を信じ、粗布を身に纏い断食を呼びかけ合います。そして王自らも王衣を脱ぎ捨て粗布を纏い、灰の上に座って断食を行うのです。この断食は、人も家畜も、食べることはおろか水を飲むことすらも禁じた厳しいものでした。そして悪事や不法から離れて神に赦しを請うたのです。

その甲斐あって、神様は裁きを思い留まられ、ニネベの町は滅びから救われたのです。

断食。

なんとなく自分事ではなく、実感も湧かなかったのですが、いざどんなものか具体的に想像してみると、

・・・・・

私にはとても無理だー・・・と思ってしまいました。

一食抜くくらいは良くやりますが、何日も水以外一切口にしない、なんて想像も出来ませんでした。

元来食いしん坊の私は、美味しいお店を食べ歩くの大好き、スイーツ大好き、作るのも(味見もつまみ食いも)大好きだったからです。

それに、子供の頃からの「朝昼晩三食バランス良くしっかり食べねばならない」の刷り込みが依然強烈に残っていて、「しっかり食べないと力が出ない。身体に良くない。」と、まだどこかで思っている節があるのでした。

それでも信仰を持ってからは食に対する執着がグッと減って、「お腹いっぱい食べたい」とか「あれもこれも食べたい」という欲望や、「こういう店じゃないと嫌」というこだわりも、随分と無くなったのですけどね。

で、ある日、自分の弱さと信仰の甘さを痛感する出来事があり、本気で悔い改めないと駄目だと思いました。心が苦しく、居ても立っても居られない感じでした。

折しも断食の方法や効果について教えて頂いていたばかりだったということもあって、「今日やるべきだ、やろう」と明け方のお祈りの時に心に決めたのです。

その日は出かける用事も仕事も無い日でしたから、尚更でした。

お祈りが終わった後、「断食します」と神様に宣言して、お水を一杯飲みました。

スーッと沁み渡るようでした。

一度決意をしてしまうと、夫や子供達に朝食を用意しても、食べているのを見ていても、「食べたい」という欲求は湧きませんでした。

夏休み中だったので、特に出掛けたりする用事も無く、家で静かに過ごせる条件が整っていましたから安心でもありました。

空腹を感じた時には、コップに水を汲み、感謝を捧げて飲みました。

すると、水は驚くほど甘くて、本当に美味しいのでした。

昔、父が東北に居た時に、家族で山歩きをして湧き水を飲んだ時の感動を思い出しました。

また、「星の王子様」の中で、「ぼく」が井戸から汲んであげた水を王子様が飲むシーンを思い出しました。

その、「なにかおくりものでも受けとるように、しみじみとうれしい水」とは、こんな味だったのではないかなと、もしかしたらそれよりもずっと美味しいかもしれない、と思いました。

私はこの水の美味しさに夢中になり、飲むのが楽しみになりました。

但し、水だけの生活ですから、料理の味見も駄目なのですよね。私は普段から料理は分量通りに作らず、味見をしながら作るのが常なので、これは困ったなと思いました。そこで考えた挙句、夕飯はカレーにしました。カレーなら味見しなくても大体分かるし、子供に味を決めてもらいやすいからです。

カレー独特の食欲を刺激する香りに耐えられるのかと心配でしたが、私の脳に「食べない」という強力なリミッターがかけられているようで、特に空腹を刺激されて苦しむことはありませんでした。

何というか、「いい香り→美味しそう」まででストップしていて、「美味しそう→食べたい」間の回路が切られている感じでした。

だからきっと、煙草やお酒や薬などのあらゆる強烈な執着物、中毒物を断てず苦しんでいる人も、神様の御前に置けばいつか必ず断つことができるのだと思いました。神様に共にしていただければ、時間がかかることはあってもきっと何だってできるのだと思います。

神様とは、信仰とは、本当に凄い力を持っているのだと痛感しました。

その日は暮れて、寝る前に最後の恵みの水を頂き、床につきました。とても幸せに満たされていました。

断食から一夜明けると、明け方に爽やかに目覚め、祈りがとても深く入りました。そして身体が軽くなり、何だか心もスッキリしました。

私の場合、断食期間はたった一日ですから、無理なく行えたというのもあると思います。

でも、自分にも出来たことで嬉しくなってしまい、愚かにもそれに味をしめて、毎週やろう、やるべきだと思い立ちました。

2回目は前の日から「明日は断食だ」と何だか奮い立つような、ワクワクするような、楽しみなような変な感覚でした。

そして前回と同じように家で静かに過ごし、無事に終えることができました。

ところが3回目は勝手が違っていました。学校が始まり、その日はたまたま娘の学校行事の日に重なってしまったのです。軽くですがスポーツをすることになっていました。

どうするか迷いましたが、試しに活動する日はどうなのかやってみようと思い、同じように明け方から断食を行いました。完全に本来の目的からずれて、浮ついた気持ちがあったことは否めません。

その日はいつもよりも空腹感が激しく、時折食べたいという衝動が湧いてきました。しかし耐えられるレベルでした。

無事にその日の断食を終え、いつもの通り感謝を捧げてお水を飲み床につきましたが、目覚めた時に少しフラフラした感じがありました。

しかし何か食べるのは明け方のお祈りが終わってからにしようと思ってお水だけ飲んでいたら、低血糖状態になってしまい、体調が悪くなってしまいました。慌てて果物を食べてほどなく回復しましたが、体調不良を一日引きずってしまいました。不純な動機に神様が裁きを与えられたのだと思います。

そもそも断食して祈る日、なわけです。なにか活動しながらはうまく祈れませんから、聖書の中の人々も静かに祈ることに集中していたのでしょう。特に私のような信仰も幼い者は尚更です。「断食する」という行為にばかりに捉われてしまっていたこと、自分を試すような変な方向に行ってしまったことを悔い改めます。本末転倒でした。

さて、途中本来の目的を見失ってしまいましたが、断食をしてみてわかったことは、食べるという肉的な行為を止めて祈ったことで何かが削ぎ落とされたこと、私のもがきを神様が憐れんで下さり私の悔い改めを聞いてくださったという実感でした。

何か私の中で濁っていたものが取り去られ、クリアになった感じがあるのです。

そして、その意味が今回のRAPT有料記事vol.206の啓示者の方の啓示の中にサラリと書いてあり驚いてしまいました。

本当はこの記事を昨日アップしようと思って書き終えていたのですが、栗拾いのお客さんのことがあったので先送りしたのです。更に深く理解を与えて下さったことに感謝致します。

神様が初めに天地創造なさった時、土と水しかなかったのです。その土から創られた私達の身体に水だけを与えるということは、天地創造の原点に帰ることだと感じました。この第一の日に主なる神様は光をお創りになって、光と闇を分けられたのでした。だから断食をすることで神様に倣って自分の中の光と闇を分けることが出来るのかなと思いました。

そして、感謝を捧げて頂く水が本当に美味しかったことが忘れられません。

この水の美味しさと尊さを忘れて、日々結構無駄なものを沢山食べていたなと、それはとても残念で勿体無いことだと思いました。何より神様に申し訳ないと思いました。

そして、普段から自分は食べられることに感謝しているつもりでしたが、その感謝がピント外れだったこと、心がこもっておらず形ばかりだったことに気付かされました。

朝昼晩三食しっかり食べないといけない、のではなくて、食べる時飲む時に本当に感謝を捧げて「頂く」ことこそが本当の食事であり大切なことですね。

主よ、これからもどうぞ私の愚かなこだわりを取り除いて下さい。

どうぞ明日も私たちに必要な糧をお与えください。

皆さんの食卓が祝福され、豊かに満たされますように。

心から祈ります。

 


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