やっぱり神様はすごい〜左手のその後

左手が萎えて病院に行ってから丁度一週間が経ちました。

◯祈りは本当に病を治すのか~萎えた手の話

早ければ2、3日、長ければ数ヶ月、悪くすれば一生治らない人もいるらしい、この「橈骨神経麻痺」。

一週間で回復の兆しが見られなければ、かなりの長期戦になるとのこと。この一週間が肝ですよ、と言われていました。

 

私ときたら、仕事はできないだろうから安静にしていてくださいね、と言われていたにもかかわらず、結局仕事に出て不自由ながらもバリバリ左手も使っていたわけですが、日に日に回復している実感がありました。

両腕を上に伸ばしてみると、まだ指先までピンとは伸びませんが、とりあえずコルナサインからは解放されました。(笑)

 

昨日は一週間後の診察の日でした。

回復したと自分で勝手に判断して、そのまま自然消滅してしまうのが今までのお決まりでしたが、今回ばかりはちゃんと行きました。

家族をさっさと送り出して、病院へ急ぎましたが、さすが人気の先生、既に59人待ちでした。

 

待合室で聖書を開き、読み始めました。聖書の通読も4回目に入りました。今日はレビ記の14章からでしたが、ふと以下が目に留まりました。

 


17章10節 「血を飲むな」

イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いの儀式をするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。

イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。・・・・・


 

ここを読んでいて、次男の亡骸を思いました。お葬式の日、最後のお別れのキスをした時に、まるで冷えたプラムのようだったこと。血の流れのない、あの固い感触。

“すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである”・・・まさにその通りだと思いました。

 

そして、私自身が小さい頃から極端に血を見るのを恐れていた事を思い出しました。他人のであれ自分のであれ、血を見ただけでフラフラと貧血を起こしてしまうのです。少しは強くなりましたが、今でも苦手です。子供達の鼻血にも、卒倒しそうになりながら必死で対応しております。(笑)

それも、きっと命(血)を奪われることへの本能的な恐怖なのでしょうね。

 

しかし、聖書は旧約も新約も、くどいくらいに繰り返し繰り返し同じことが書かれていますよね。別の場所に書かれていることも勿論ですが、上にあるように同じ章の中でも何度も何度も繰り返されたりします。

文章としてスッキリとしていないので、最初の頃は翻訳に問題があるのかなと思って読んでいました。でもこれには意味があるのでしょう。私達人間が、それくらい口を酸っぱくして言わないと分からない愚かな民であり、それくらい固く守るべき重要な掟なのだということでしょう。

 

・・・そう考えると、世界各地にあるブラッドソーセージって、かなりクエスチョンマークですね。キリスト教の国々でも名物料理になってますけど・・・

屠殺した動物の命を無駄なく食べることは命を粗末にしないのだから良いことのような気がしてしまいますが、聖書の中であれだけ何度も何度も「血を食べてはいけない」と神様に念を押されているのです。それこそ、偶像崇拝や姦淫を禁じるのと同じように。

だとすると、そもそもブラッドソーセージのルーツは神様への反逆だったのかも、と思い至りました。

文化とか伝統の中に神への反逆が組み込まれていることは、よくあることです。

 

また、以下も心に留まりました。


19章1節 「聖なる者となれ」

主はモーセに仰せになった。

イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。

あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。

父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。

偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。

あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

あなたは隣人を虐げてはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。

あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷したり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。

心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。

復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。・・・・・・


 

どこまでも正しく清いです。厳しいように見えて、どこまでも愛に溢れています。これを読んで、当たり前のことじゃん、と思いますか?実は結構この当たり前が出来ていません。今の私達の正しさの価値基準が、とても曖昧だからです。

 

例えば、”力ある者におもねってはならない”というのは共通認識としても、弱者を偏って庇うことは一見良いことのような世間の風潮があります。しかし、たとえ弱者であれ悪いことは悪いわけです。神様の法では善が絶対であり最優先なわけですね。

先日、家族で出かけた公園で、乗り物チケットの自販機に並んでいた時のことです。釣銭切れだったので係員を呼びに行き、並んで作業を待っていたのですが、係員が作業を終えて使えるとなったところで、私の前にヒョイと小さな子が割り込んで入り、一番に買おうとしたのです。私は、「おばちゃんがずっと先に並んでいたんだよー」と許しませんでした。後ろにいた親御さんが、「すいません・・・」と申し訳なさそうにその子を連れて後ろに並ばせましたが、それを見た息子が、「いーじゃん、黙って小さい子に譲ってあげたって。お母さん大人気ないな〜。」と言ったのでした。

私は「え?順番は順番でしょ?」と言って、そのまま気にも留めませんでしたが。

あ、ちゃんと私、当たり前に出来るようになってきたなー。前なら偽善がムクムク出てきて黙って譲っていたかもなー。それか、息子にたしなめられて恥ずかしいと思っていただろうなー。

と、振り返りながら思いました。

それを黙認することは一見優しさのように見えて、その子にルール違反の罪を犯させるわけですし、「小さいんだから許されて当たり前」という間違った価値観を植え付けてしまい、ちっとも優しくありません。

 

「あなたたちは聖なる者になりなさい。」

 

この言葉に胸が打たれます。

「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」

つまり、

「わたしのようになりなさい」

他でもない神様が、そう望んでいらっしゃるのです。なんと光栄なことでしょうか。私達は聖なる者になるために努力を怠ってはなりません。

 

民数記の1章まで読み進めたところで私の順番が回ってきました。

 

「どうですか?」と優しい眼差しを向ける先生に、私が左手を動かして見せると、

「おお〜、すごい!良かったですねぇ!!!」

と、心からの喜びの声をあげてくれました。

「ここまで良くなるとは、いやぁ本当に驚きました。」

 

あとは治るまで待つだけだそうです。

「しかし、まだ3割くらいの回復ですからね。」

と釘を刺され、ビックリしてしまいました。自分では6〜7割回復していたつもりだったからです。

・・・仕事に出ていたとは、とても言えませんでした(笑)。

どんなに筋肉を鍛えた屈強な腕でも、神経を傷めてしまうと全く力が入らなくなってしまいます。髪を切られて力が出なくなったサムソンのように。まさに神の経路ですね。

あれ、もしかしてサムソンが切った「かみのけ」は、「神の経」だったのでしょうか?

神経は身体中に張り巡らされているわけですが、まさに配電図のように、この線がこの指、この線はあの指、と、たった一本の手でも精密な仕組みになっているのだと先生は説明してくれました。

本当に、心から神様の御業を讃えます。

 

せっかく神経が回復しても、動かなかった期間に筋肉が衰えてしまうと、今度は筋肉のせいで動かなくなってしまうのだそうです。

それを防ぐ為にリハビリの方法を教わったのですが、それがなんと私が無意識にずっとやっていた動きでした。

きっと神様が私を憐れんで教えてくださっていたのだと思います。だからこそ、こんなに早く回復したのだと。

 

神様に頂いたこの身体を、これからも大切に感謝して使いたいと思います。

 

本当に偉大なる神様。神様はすごいです。

 

私はあなたに憧れ、あなたを目指して、聖なる者となるように励みます。

どうかこれからも私を、そして兄弟姉妹の皆さんを清め、練達してください。

 

そしてこれを読まれる皆さんが神様の清さ正しさを知り、絶対なる善の道へと導かれますように。

 

心から祈ります。

 

 


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