あれも高慢、これも高慢

先月初、とうとう愛媛に教会が建てられ、1ヶ月半が経とうとしています。RAPTさんと兄弟姉妹の皆さんのご尽力に心から感謝致します。

教会では毎朝、明け方のお祈り会が開かれています。その毎日の音声は先月と今月の有料記事の中から一月分ずつ購入することが出来ます。教会に行くことが出来なくても、日を置かずに日々の御言葉を何度も聴くことが出来るのはとても嬉しいことです。

また以下の有料記事では一日だけですがその様子を聴くことができますのでご紹介します。是非教会の雰囲気を味わってみてください。

◯RAPT有料記事209(2017年9月23日)神様の新婦になった者は、神様の持っているもの全てを自由に使う権利がある。

毎朝3曲讃美を歌ってから、代表祈祷があり、それからRAPTさんが神様の御言葉を語ってくださいます。五感が目覚める、とても力強い言葉の数々です。

そしてそれは不思議とその時に自分が直面している問題に対する答えだったり、打開する大きなヒントだったりするのです。

聖書のあちらこちらに「主は生きておられる」と繰り返し繰り返し書かれてありますが、本当に神様は生きておられるのだと、実際にこの生きた御言葉を聞けば感じられると思います。

そして教会で歌っている皆さんと声を合わせて讃美歌を歌ってみると、心が晴れ晴れとするでしょう。是非一緒に歌ってみてください。

この教会では、既存のものではなく、同じ信仰を持つ兄弟姉妹の方々が作られた讃美(歌)を歌います。

以下、讃美が音声と歌詞付きで載っている有料記事です。どれも力を得られるものばかりですので聴いてみてください。

 

実を言うと、私は最初の二つ(”全てを捨てて主のもとへ”と”1000パーセントは神様だけ”)を初めて聞いた時、既存の讃美歌のイメージとあまりにも違いすぎて、俄かに受け入れられませんでした。

なんかイメージと違うな・・・と思ってしまったのです。特に二曲目は歌詞にも戸惑いを感じてしまいました。(本当にどこまでも高慢な自分を悔い改めます。)

でも、数ある応募の中から真っ先に選ばれたのがこの2つなのですから、きっと意味があるのだろうと思い、半信半疑ながら一生懸命覚えて歌ってみました。すると、RAPTさんや皆さんが仰るように本当に喜びと聖霊で満たされたのです。

そして今、この二つの讃美からとても力を得て、喜んでいつも歌っています。心が上がり、本当にしみじみと力の湧いてくる歌です。もしも私が頑なに自分の好みを重視して拒んでいたら、この喜びが得られなかったわけです。あまりにも勿体無いことですね。

それ以降、更に続々と素晴らしい讃美が寄せられ、毎日毎日、歌うのが一層楽しくなりました。

 

讃美は(本来なら音楽全てが)、あくまでも神様に捧げるもので、神様が喜んでくださればそれが正解です。

自分の好みや勝手なイメージで違和感を感じ、ちょっとでも首を傾げていたことは高慢以外の何物でもなく、本当に恥ずかしくなります。

 

私達は自分の好みや感覚を頼りに物事を選択しているようで、実はかなり誤った固定観念や誰かの価値観に支配され、誘導されて選択しています。一番強烈で根強いのは、親(特に母親)からのものだと思います。その周りに「自分の経験」がガッチリとくっつき、コーティングされて、あたかも全部が自分の価値観かのように錯覚し形成されているのです。

この年齢になっても、私自身、母親の価値観から抜け切っていないなあと感じる瞬間もありますし、「あなたの価値観、ほぼ母親だね・・・」というガチガチの「母親人間」とも沢山出会います。大抵その本人は気づいていないんですけどね。

本当に正しいもの、良いものを与えられるのは、神様以外にありません。今まで与えられていた正しいもの、良いものは、他でもない神様が親や誰かを通して与えてくれていたのです。もれなく親や誰かの価値観や考えも乗せられて、ですけど。

だからこそ神様の指針が必要なのですよね。

神様を知った今、神様の御前で一旦全てを捨てて、まっさらになって、そこから本当に必要なものだけを選別して頂くということをしなければいけない意味が、身にしみてわかります。

間違いだらけ、固定観念だらけ、ガラクタだらけの私の脳みそでは、どれを選んでいいのやら、とても正常な判断ができませんから。

 

世の中、以前の私のように自分の感覚を信仰している人は沢山いますが、それは単なる高慢、傲慢であることを知らなければなりません。今は良くてもいずれ大きな落とし穴にはまってしまいます。

高慢と傲慢の山が大きければ大きいほど、落とし穴も深く深く掘られていくのです。

・・・恐ろしいことです。

 

私は信仰を持つ前から讃美歌が好きでした。信仰を持ってからは更に沢山、古い賛美歌も新しい讃美もYouTubeで聞いて喜んで歌っていました。

でも今はあまり力を感じなくなり、既存のものは次第に聞かなくなってしまいました。

神様の偉大さを讃える歌や、神様への愛を綴った歌はまだ良いのですが、

神様が私を癒してくださる。(そうなんですけど)

神様はこのままの私を愛してくださる。(まあ、それもそうなんですけど)

イエス様が私たちの代わりに死んでくださった。(それも事実なのですが)

等々・・・そこばかりに終始しているようなものは聞いていて悲しくなります。

確かに間違いではないのですけど、何というか、とても軽いというか、他力本願で軟弱な精神を感じてしまうものが多すぎます。

 

讃美歌はまさにその信仰を象徴していると思います。

神様は私たち人間を大きな愛で包んでくださいますが、私たちがそれを当たり前に思い何の努力も向上もしなくて良いでしょうか。

神様は私たち人間を、神様と愛し合う存在として作られたと私は学びました。

神様はどこまでも清い完全なる存在なので、愛し合うならば私たちもそこを目指さなければならないと。

決して、「このままの自分」「ありのままの自分」で良いわけありません。

スタートとしては、「土くれから作られたちっぽけな愚かな私」を認めることで良いでしょうが、どんどん神様に近づいていけるように必死でもがき続け成長しなくてはと思います。

このままで良いんだ、自分は神様に十分愛されているんだ、と安穏と同じレベルに居続け、自分の癒しだけを求めている場合ではありません。

本当に神様の愛に感謝しているなら、本当に神様を愛しているなら、このままの自分で良いわけがないことは自ずとわかります。もっともっと、神様に喜ばれることをしたいし、神様の役に立てることをしたいと考えるはずです。

人間同士の恋愛を考えてみても、「だって私(俺)のことが好きなんでしょ」とお高くとまって、ただ自分ばかりが心楽しく、そのまま何の努力もせず、貰うばかりで自分の方から与えようとする心もなければ、いずれウンザリされて恋愛関係は破綻するでしょうから。

成長する努力、愛されるに相応しい自分になろうとする向上心が無いことも、怠惰である以上に高慢に他ならないのだと知りました。

 

私たちは自分の幸せだけを追求してもうまくいきません。他人から見た成功や幸せは手に入ることはあっても、心に完全なる平安があるのか、ということが問題です。物質やお金や能力や環境が手に入り、目的を達することはできるかもしれませんが、その目的を達したことで本当の意味で幸せになったのか、満たされたのか、そこが問題なのです。

もし、心の中が枯渇感や焦りや不安や心配で満たされているのならば、幸せとは言えません。そこには必ずサタンがいて、正常な心の状態ではないからです。

どんなに華やかであっても、煌びやかであっても、それは真の幸せとは言い難いものです。

 

人間は神様から離れてしまっては、平安に心満たされて生きていくことは出来ません。決定的なものが欠けているからです。

それは、神様の愛です。

この唯一無二の神様の愛に代わるものは、残念ながら何処を探してもありません。

神様が共に居てくださってこそ、完全なる幸せが得られるのだと、私はこの歳になってやっとその答えに辿り着くことが出来ました。

 

一生懸命生きてきた人ほど自負があり、高慢を手放すことは難しいのかもしれません。

今まで私達が積み上げてきたものは、子供の積み木みたいなもので、ちょっとのことで簡単に崩れてしまいます。

ほんのちょっとのズレや不安定な部分が致命的となって、ある日全てが崩れてしまうことになります。

 

でも、崩れてしまっても、積み木自体は残ります。

また、崩れる前に神様に一旦全部明け渡して委ねてしまえば、もっと楽です。

神様は私達に正しい積み方を教えてくださいますし、崩れてしまったショックを「もう一度正しくきちんと積んでいけばいい」という前向きな心と力に変えてくださいます。

そして、きっと、一つ一つ、自分の発想では思いつきもしないような組み合わせで新たに積み上げることができ、今まで想像もできなかった素晴らしい作品に仕上がるのだと思います。

とても楽しみなことではないですか?

 

一人でも多くの人が自分の隠れた高慢を手放すことが出来ますように。

神様の愛を知り、その愛に応えることが出来ますように。

共に学んでいくことが出来ますように。

 

心から祈ります。

 

 


あれも高慢、これも高慢」への2件のフィードバック

  1. 素晴らしい記事を有難うございます。読ませていただいた筈なのに、ちっとも受け取る事ができていなかったということに、改めて読ませて頂いて、気付くことができました。まるで、目があっても見えず、耳があっても聞こえない、、、、聖句そのものです。
    本当に愚かでした。あなたの悔い改める気付きを教えてくださったお陰で、
    神様の御前で、私自身の罪、悔い改めるべき罪をたくさん具体的に見つけることができ、悔い改めの祈りを捧げることができました。本当に本当に有難うございます。主があなたを御使いになり、私に気付かせ、救ってくださった事、心から心から感謝致します。
    私も共に心から祈らせてください。
    あなたと兄弟姉妹に益々の、神様からの愛と祝福があり、主が共にしてくださいますように。

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    1. ゆうきのでるこうちゃん梨さん、
      私の拙いブログがお役に立てたなら幸いです。
      本当に神様はどこまでも愛の方であり、私達の悔い改めを忍耐強く待ってくださっているのですね。迷い出た1匹の小羊を見つけてきっと喜んで下さっていますね。群れに戻り、どこまでも主に従順な者となれますように。共に祈れますことを神様に感謝致します。これからも豊かな悟りと祝福が与えられますようにお祈り申し上げます。

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