左手が教えてくれたこと

10月も間もなく終わりますね。

今日は萎えた左手の診察日、長い長い待ち時間は祈りと聖書と振り返りの時間です。

 

この1ヶ月、本当に色んなことがありました。

先月末に大好きなパン屋さんの厨房で働くことが決まり、本格的に働き始めた途端、突然左手が萎えてしまったことから全ては始まりました。

振り返ってみれば、それをきっかけに、私の肉だけでなく、霊も目まぐるしく破壊と再生が行なわれた1ヶ月でした。

まず、左手が動かなくなったことで(それも痛みもなく単に動かなくなるという状態)、普段当たり前にできていたことが恐ろしく骨の折れる作業になりました。それによって、どれだけ多くのことを無意識に行なっていたのかが分かったのでした。

髪を結ぶ、野菜を刻む時に押さえる、緩んだ蓋を開ける、そんな簡単なことが出来ないのでした。

殆ど力の必要無い作業の筈ですが。

いえいえ、それどころか、前髪をそっとかき分ける、バイバイと手を振る、釣銭を受け取る、こんなことさえも出来ないのです。

痛みが伴うならまだ分かりやすいですが(それはそれで辛いと思いますが)、全く感覚が無いというのも奇妙で気持ち悪く、歯痒いものでした。

不思議なことに、辛うじて仕事をこなす動きは出来た為、休まず出勤できたのですが、私の中の治さなければならない欠点が何故か顕著に炙り出されて、どんなに気を付けていても左手とは関係ない小さな失敗ばかりを繰り返してしまったのでした。

その度にドキリとし、ちっぽけなプライドを取るか誠実さを取るかを試されたのでした。怒られたり呆れられたりすることを恐れて誤魔化そうとした時にはサタンが笑いながらスーッと近づいて来るのを感じました。同時に主なる神様の炎のような目で見つめられているのを感じました。

私が小さなことにも忠実に出来るのかを、じぃっと見られているようでした。

 

朝のパン屋の仕事はスピードが要求されました。

遅い、遅いと言われました。

早く、早くと言われました。

自分でも遅いと思いました。

倍の速さで出来るようになりたいと心から思いました。

左手を歯痒く思いましたが、それは言い訳になりませんでした。

私がどんな状況であれ、店は時間通りにオープンするのです。私のペースじゃ駄目なのです。

 

全部が神様の御言葉に聞こえました。

 

家事でオッケーとしていたことも、プロの世界ではダメでした。

自分流を悉く壊され、自分が如何に適当でいい加減だったかを思い知らされました。

高い水準を当たり前に求められました。

正確さを求められました。

本当に、今までの人生で私が妥協したり適当にこなしていたことや、自分を甘やかして目をつぶり続けてきたことに向き合わされました。面白いほどに。

今まで自分では出来ていると思っていたのです。これで良いのだ、と思っていたのです。その高慢さを心から恥じました。

 

まだまだ出てくる出てくる、プライド。

まだまだ出てくる出てくる、高慢。

まだまだ出てくる出てくる、不誠実。

醜い私。

本当に醜い私。

 

プラスチックの袋に入ったクリーム状のものは、どんなに手で綺麗に袋を絞り出したつもりでも、丁寧にカード(薄いカードのようなプラスチックの道具)でしごき取ってみれば中身が驚くほど沢山残っていたことに気づきます。

マスカルポーネチーズやタルタルソース、卵黄液の入った袋をカードでしごきながら、いつも思います。

鍋に残ったカスタードをゴムベラで綺麗に拭い取りながら、いつも思います。こんなにたっぷり付いていたのかと。

最後の1mgも残さずに綺麗に丁寧に取れば、ようやくその袋を捨てることが出来ます。手で絞り出したくらいじゃ甘いのです。

鍋をこれでもかとゴムベラで丁寧に拭い取れば、やっと流し台に下げられるのです。

私の悪いものも、こうやって全部綺麗に押し出してしごき出して拭い去りたいです。本当に心からそう思います。

 

気づけば3時間半が過ぎ、私の順番がやって来ました。

回復状況は1を完全不能、5を完全回復として、5段階に分けられます。

「あなたは今、3プラスですね。」

前回3割だったのが、7割に上がったってことです。

「まだまだ完全になるには先ですけど、良い状態ですよ。」

 

左手が回復するにつれ、私の欠点が拭い去られていきました。私の悪い考えが拭い去られ、外れていたネジが取りつけられ、欠けていた部品が補充されるような感じがしました。

 

全ては主なる神様の愛でしかないことが身に沁みて分かります。

私達を引き上げようとしてくださっている神様。

私達は必ず、完全になれると仰いました。

その為の努力を惜しむことは、怠惰以外に何と言えばいいでしょうか。

神様にすがりつき、しがみつき、神様を愛することで、不可能と思うことが可能となると仰いました。限界点は自分が決めることじゃないのです。

このことは私達をどれだけ勇気付けるでしょうか。

 

ありのままでいい、そのままでいい、は、呪いの言葉です。

サタンのぬるい泥沼から私達が這い上がらないように仕掛けられた罠です。

 

厳しい言葉にこそ愛があることを知らなければなりません。

その厳しさが邪悪で不当なものでなく、正しさを感じるならば、清さを感じるならば、神様のものです。

私達の霊は神様を知っていて、求めているからです。

その厳しい言葉を聞いて私達の耳が痛いならば、それは神様のものです。

私達はずっとサタンの世界に住んで、サタンのルールで生きてきたのですから。

 

どうか主よ、これからも私をお導きください。

練達を恐れません。精錬されることを喜びます。

私の悪を全て取り除き焼き滅ぼしてください。

 

全ての人が全知全能なる神様を知り、深く結び付けますように。

厳しくも真実の愛である成約時代の福音を受け入れることが出来ますように

 

心から祈ります。


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