偶像崇拝は教育から

先日、娘の音読をめぐるエピソードを書きましたが(馬鹿って言っちゃいけないの?)、その音読、実は「かさこじぞう」でした(笑)。

知らない人はいない、この話。

一応あらすじを書きますと・・・

貧しいおじいさんおばあさんはお正月のお餅を買うお金もありません。仕方なく菅笠を5つ作り、おじいさんが街に売りに行きます。一つも売れずに帰る道すがら、雪に埋もれて寒そうに並んでいる6体のお地蔵さんを見かけます。おじいさんは気の毒に思い、5つの菅笠と自分の手ぬぐいをかぶせてあげて家に帰ります。おばあさんはそれを責めもせず、寧ろ良いことをなさったと褒めて喜びます。その夜、菅笠と手ぬぐいをかぶせてもらった6体のお地蔵さん達が餅だの味噌だの大根だのゴボウだの、お正月の材料を沢山持ってきてくれました。ありがたや、ありがたや・・・

というお話。

 

思いっきり偶像崇拝礼賛物語ですね。

小学二年生の国語の教科書にしれっと入っています。

息子の時代にもありました。(7年前)

なんと、私の時代にも!!(37年前)

 

確かにこれを、本当にあった話だ、とは子供であれ誰もが思わないでしょうが、少なくともお地蔵さんを大切にしたら良いことがありそうだと刷り込まれるわけですよね。

 

日本の昔話は、本当に偶像崇拝オンパレードです。

 

それも、いかにも人が良さそうな顔をして、巧妙に入ってきますね。

 

「マンガ日本昔話」

私、子供の頃大好きで、ずっと観ていましたよ。(笑)

テレビにやたら厳しかった我が両親も「優良アニメ」と位置付けていましたし。

 

私達はこのようにして、当たり前のように偶像崇拝が良いことだと刷り込まれていったのですね。

だから、普段そんなに神仏を信じていない人でも、例えば「とげぬき地蔵」なんかに行けば、割と本気でゴシゴシやっちゃうわけですよね。(笑)←私もやりました。

 

しかも、今気づきましたが、6体のお地蔵さんて・・・

どこまでも6がお好きですね。

 

それはさておき、お地蔵さんといえば、思い出したことがあります。

私は流産した時に(うまれることと死ぬこととvol.2)、あまりに早期の、人間の形すらしていない胎児をどのように弔って良いのかわからず、正解を探して色んな人の意見を聞きました。

義妹は、「まだその時期の胎児には魂は入っていないんだよ」と言い、だから弔う必要は無いと言いました。

でも、私にはそう思えませんでした。命は命でないか、と思ったのです。

インターネットで見たあるお寺では、水子の霊は地獄のような場所で苦しみ悶えているなどと恐ろしいことが書いてあり、(ご丁寧にその様子を描いたおどろおどろしい絵まで載せてあり・・・笑)絶望的な気分になったこともありました。

・・・人を救うはずのお寺がそのような恐怖を植え付けて、一体どういうつもりでしょうか。

今ではその意味がとても良く分かりますけどね。

しかし当時も、流石にそれは無いだろうと気を取り直し他を調べると、割と近くにあるお寺に水子地蔵が祀られており、そのお地蔵さんに花を手向けたり御線香をあげたり、水をかけてあげたりするだけでも供養になるのだと書かれていました。

我が意を得たり!と、なんだかとても心が救われ、早速お花を手向けに行きました。それで許されるのなら、一生通おうとすら思っていました。

とにかく私の中で贖罪の気持ちが強かったので、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったと思います。

当時は今のような信仰を持っていませんでしたが、神様に裁かれているというハッキリとした認識があり、許してもらえなければ、再び子を授かることはできないと思っていましたから。

 

許してもらう為の方法を思いっきり間違えましたけどね。

 

その後、不思議なことがありました。

そのお寺に2度目に花を手向けに行った時のことでした。

お寺に着いた頃から急に雨がポツリポツリと降り始め、だんだん雨脚が強まってきました。

息子が小さかったこともあり、私達は買っておいた花束を水子地蔵に手早く供えるとすぐに退散しました。

祈るも何もあったもんじゃありません。

詳しい理由は忘れましたが、帰りの車で私は夫に対して腹を立て、泣きじゃくりました。多分、ただ私に付き合って、私が気の済むようにというだけでお寺に行く夫の態度に傷付き、「私と同じような気持ちで流産した子を悼んでいない」とか、「他人事のように思っている」とか、そんな恐ろしく痛い理由で詰っていたように思います。

影も形もないような初期流産を、夫が妻に共感して、同じように嘆き悲しむことなんて出来ないでしょう。まさに傷付き悲しむ妻を気遣って「妻の気の済むように」付き合っている夫には、優しさこそあれ非はありませんよね。

 

空も暗い雲が垂れ込めて、いつしか激しい雷雨になっていました。私の心とシンクロしているようでした。

 

 

しかし、まるで示し合わせたかのように、家に着いたと同時に雨がピタリと止んだのです。本当に私達の到着に合わせてという感じでした。

私もひとしきり泣いて気が済み、涙も止まっていました。夫の態度に対する不満は只の呼び水に過ぎず、結局は自分自身の中に積もり積もった、不安や悲しみや苦しみを、涙で押出したかったんだと思います。

雨が止むと同時に、なんだか私の心も晴れました。

そして、眠っていた息子を起こし、私達が車から降りると、なんと目の前の空に、それはそれは大きな虹がかかっていたのです!

まだ暗い空の、ほんの少しの晴れ間に。

 

その時私は強烈に、

 

神様だ!

 

と思いました。

 

 

あのようにくっきりとした、完全な弧を描いた虹は、

真正面の視界いっぱいに悠々と立つ美しい虹は、

 

後にも先にも見たことがありません。

 

畏れ多いことですが、ノアの箱船の最後に神様が仰る「虹」を思い出してしまいます。

《創世記9章12節より》

更に神は言われた。

「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものすべてを滅ぼすことは決してない。・・・・

 

その時の私も、神様から何か言葉にはならない、大きなメッセージと答えを頂いた気がしました。

 

そして、その後、何故か2度とそのお寺に行くことはありませんでした。

どうしたわけか、行く気が全く無くなってしまったのです。

それでも罪悪感と義務感が再び湧き起こり、(行った方が良いのでは?)と頭によぎることはあったのですが、何かに止められるというか、その行為が間違っているように思えて、足が向かなくなってしまったのです。

 

すっかり忘れていたエピソードですが、こうして思い出すことができ、更に神様の愛と御計らいを再確認出来たことに感謝が溢れます。

 

ところで私はその後、次男を出産時に失うのですが(うまれることと死ぬこととvol.5)、次男の弔いに絡んでも「お地蔵さんの誘い」が浮上しました。

妹が、「皆でお金出しあって、可愛いお地蔵さん建ててあげてもいいよね。」と言ったのです。

 

それを聞いた時、あまりの違和感にギョッとしたのを覚えています。

 

私はその当時、精神的にも妹に頼りきり、彼女の意見をとても重要視していましたから、サタンは彼女を使ったのだと思います。

しかし、私はそんな思考停止状態にもかかわらず、その提案は完全にスルーすることができました。

次男のエピソードの中でも何度か書きましたが、そもそも仏教は違うという思いがありました。だから自分達で思うようにお葬式をしたわけです。

でも、流産の時の水子地蔵や虹のことがなかったら、或いはそれが正解だと思って引き戻され、偶像を自ら建てる罪を犯していたかもしれません。

 

もし、お地蔵さんなんかを建てていたら、私達家族は勿論、親兄妹もそれを拝み可愛がるという愚かなことをせっせとしたに違いありません。

お寺にも足繁くせっせと通って、深く繋がっていたことでしょう。

そうやって自己憐憫と罪滅ぼしを何の意味もない小さな石の塊に向けて、本当にすべき悔い改めと神様への感謝から遠ざかっていたと思います。

自分だけでなく家族までも誤った道に引き込み、そしてこの地にサタンの記念碑を建てるという三重の罪を犯さずに済んだことを、本当に心から感謝します。

 

私達は小さい頃から少しずつ少しずつ偶像崇拝の教えを入れられて当たり前になり、それに対する抵抗も違和感も感じられなくなっています。

多分これを読んでいる人の中にも、

「え、何が悪いの?」

と思う方も沢山いらっしゃるのでは、と思います。

 

偶像崇拝は、真の神様から私達を切り離し、ただの石や木や鉄の塊に心を向かわせるものです。

本気でそれが助けてくれるとでも思うのでしょうか。

地蔵が?仏像が?マリア像が?天使像が?

・・・石ですよ。金メッキの鉄や木や土ですよ。

 

人魚姫の話で例えるなら、嵐の海で溺れる王子様を助けたのは人魚姫だったのに、王子様は隣国のお姫様が助けてくれたと思い込んで結婚してしまう、みたいなものです。

そんなことを私達は平気でしているのです。

王子様は、まさか海に人魚姫がいるなんて思いもしなかったのです。

だから、目の前にいた人を、そうだと思ってしまったのです。

私達も、まさか偉大な神様が、目に見えぬ大きな神様が、生きて存在していらっしゃるとは思いもしなかったのですよね。

だから、目の前にあるそれっぽい形のものを神様ということにして拝んでしまうのです。

 

真実の手前の、それっぽい偽物を選択することは、本当に残念で勿体無いだけでなく、真実を捻じ曲げ冒涜するものです。

 

私達を造り、あらゆる生き物を造り、天と地と海のあらゆるものを造り、護り導いていらっしゃるのは主なる神様です。

その方は、偶像崇拝を忌み嫌い、罪に定め、禁じていらっしゃいます。

 

それは単に神様が「わかって欲しい」と思っていらっしゃるだけでなく、そんなものに阻まれて神様の元に繋がることができなければ、私達が救われないからです。

私達を救い護りたい神様の愛なのですね。

 

神様は、絶対にいます。

目に見えないけれど、誰しもその恩恵に預かっているのです。

人間に良いことをして貰った時には「ありがとう」と言えるのに、命を授けて下さり、護り導いて下さっている神様のことは認識すらできず、よって感謝すら伝えず、逆に神様の禁ずることや悲しませるようなことばかりをする。それではいけません。

 

 

貧乏だったけどお地蔵さんのお世話したからご馳走を貰えたよ、みたいな偶像崇拝をせっせと植え付けるより、真の神様の愛と善悪の教えを教科書に載せて欲しいです。

 

聖書を読みましょうよ。

 

論語じゃなくて、聖書を。

源氏物語じゃなくて、聖書を。

 

 

神様の御言葉と教えである聖書に忠実に教育が為されれば、善と悪をはっきりと分ける力を誰しもが身に付けられると思うからです。

そして、正しさが尊ばれ、悪が滅びるしかないからです。

馬鹿みたいな富の集中も無ければ、善なる人が貧しさに倒れることもないからです。

 

そうなれば、どこまでも平和な人間関係の天国が築かれることでしょう。

 

但し、やみくもに聖書を読めば良いというわけではありません。

聖書は比喩で書かれ、悪人が読んだ時に分からないように封印されているからです。

読み解くための正しい参考書が必要になります。

《ヨハネによる福音書16章12節より》

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる。』と言ったのである。」

イエスキリストの言葉が心に沁みます。

 

私達の時代が、まさにそうではありませんか。私達の目にしているものが。

◯RAPT有料記事161(2017年4月8日)この時代に神様の遣わす中心人物は、聖書の封印をすべて解く人だ。

 

 

大人も子供も、全ての日本人が旧約、新約、成約聖書を読む時代が来ますように。

 

この時代に生きていることの尊さを感じることができますように。

 

全世界に福音が宣べ伝えられますように。

 

 

心から祈ります。

 

 


コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中