あの時感じていた違和感は

またまた妹のことを書きます。

 

本当に数ヶ月前までの妹は、まさかここまで信仰を取り戻せるとは思えない程に瀕死の状態でしたから、思い返すとじわじわと感動がこみ上げてきます。

だから思い出したことを今、書いておこうと思いました。

もしかしたら、同じところでつまずいている方のヒントになるかもしれません。そうであれば本当に幸いです。

 

妹の帰還は、本当に奇跡のように感じます。信じてはいたけれど、確かに信じて祈ってはいたけれど、本当に神様は願いを叶えてくださる方であり、慈しみ深く救いの御手を差し伸べてくださるのだと、改めて感謝が溢れてくるのです。

それこそ彼女はカインのようにノドの地に住み続ける勢いでしたから。

しかも、カインのような取り返しのつかない恐ろしい罪を犯したわけでもないのに、自分自身のゴミを片付ければ済む話なのに、頑なに大きな荷車にうず高く積み上がったそれを引き引き安住の地を探していたのですから。そこに彼女の住む家なんて見つかるわけないというのに。

彼女が歩く度に、はみ出たゴミが荷車からポロポロ落ちていくのですが、また目の前にある違うものを大事そうに拾って荷車に乗せ、荷物は減らないという感じでした。

(人の目の中のおがくずはよく見えるものです。私の目の中に丸太があれば気付き、取り除くことができますように。)

 

目が開かれると、それが本当にただのガラクタで、取るに足らないものだとわかります。

 

私にも沢山、そのような自分には見えないゴミがあるのだろうと思いますし、まだまだゴミと認定したくない未練たっぷりなゴミがあることを自覚しています。

 

本当にそれら全て綺麗に捨て去りたいです。

 

固く縛りすぎて解けないゴミや手に負えない重すぎるゴミは、力ある方にお願いして下ろして貰えば良いのですよね。

どんな屈強な人よりも、遥かに超える力を持つ方が、いつでも頼って良いと仰ってくださっているのですから、どれだけ心強いでしょうか。遠慮なくお願いすれば良いのです。

ただその方は、私達がお願いしないのに勝手に下ろすなどという無礼なことはしないわけです。だって、私達がそれまで大切そうに持っていたものですからね。

それがゴミだと教えてくださった上で、私達がどうするのかをそばで心配しながら見守ってくださっているのです。本当にどこまでも愛です。

 

さて、妹は昔から自分の感覚に自信を持っている人でした。実際、直感や霊感は人よりもかなり優れていたと思います。

 

例えば子供の頃、こんなことがありました。

 

私と母と妹と3人で子供部屋で寝ていた時です。

夜中に妹が母を起こし、自分の学習机のところに、白い服を着た、白い帽子をかぶった男の人が座っていると言うのです。

母は部屋の明かりをつけ、誰もいないよ、と言い、引いてあった椅子を机にピッタリとおさめました。

妹は安心して一旦は寝たのですが、暫くしてまた母を揺り起こしました。

今度はお姉ちゃん(私)の机のところに座ってる!!と。

母は再び明かりをつけ、私の椅子もしっかりと机におさめ、ようやく妹は安心して眠りについたのでした。

この間、私はグウグウ寝ていたわけですが、朝になってこの話を聞いた時は本当にゾッとしました。(笑)

その時には怖がりながらも、霊感いいなぁ〜、すごいなぁ〜と思い、羨ましかったのを覚えています。そして興味本位で自分もそんな力欲しいなぁと強く願っていたら本当に与えられてしまって、散々な思いもしましたけどね。そんなもん、安易に願って貰うものではありません。悔い改めます。

また、赤ちゃんの頃のことですが、妹が突然激しく泣き喚き、どうにもこうにも泣き止まなかったのが突然ピタリと泣き止んだかと思ったら電話が鳴り、祖母がたった今亡くなったと報せが入った、なんてこともありましたね。

それ以外にも数知れず、主に母をギョッとさせるような霊的なエピソードが沢山ありました。

そんな感じで、彼女は生まれつきとても敏感だったわけです。霊的にも肉的にも、本質を見抜く目を持っていたと思います。

 

だからこそ、自分中心の方向へとどんどん邁進していってしまったのでしょうね。神様不在の技と力は、益のように見えて、寧ろかえって害をもたらすものなのですね。

 

御言葉でもありましたが、変な霊から受けている霊感を神様からの聖霊と勘違いして彼女は横道に逸れていったような気もします。

 

妹がRAPTさんからご指摘を受ける少し前のことです。

その頃は私達には今のような賛美歌が無かったので、YouTubeで既成の賛美歌を色々聴いてみて、良いと思うものを紹介し合っていました。

この世の中にこんなにも沢山の様々なジャンルの賛美歌があるとは知りませんでしたから、本当に夢中で聴いて覚え、喜んで歌っていました。

でも、信仰が今よりずっと浅かったその頃ですら、とても聴いていられない酷い賛美歌もありました。

神様への愛ではなく、自己愛、自己陶酔、自己顕示欲、又は、サタン的な匂い、集団をあらぬ方向へ導いていこうとしている感じのもの、怨念や嘘や偽善を感じるものが本当に沢山混ざっていました。

その頃の感覚が完全に正しいとは思えませんが、少なくとも今もそれらは無理なので(笑)、やっぱり違うと思います。

その中で本当に清いなと感じるものをピックアップして、子供とも毎日毎日聴いて歌っていました。

因みに以前も書きましたが、賛美歌を歌うと天使が来るのだそうです。天使は賛美が大好きだからです。天使が来ればサタンが滅ぼされますから、賛美歌はいっぱい歌った方が良いですね。

実際に楽しいですし、自分の中の悪いものを押し出すデトックスの役割もありますから、歌い終わった後は心が晴れ晴れします。

御言葉を読み、祈り、賛美し、伝道する。これが信仰の4本の柱です。私達はこの4本の柱をしっかり立てて、信仰という強固な家を建てていかなければなりません。

 

さて、話は戻りますが、妹がある日、古い賛美歌を紹介してくれました。

それは従来の伝統的な賛美歌で、アカペラの混声合唱でしたが、何故かそれを聴くと心が掻き乱され、震えが来て聴いていられない感じがしました。

幽霊のような、暗い霊を感じる声と歌い方なのです。

妹は、今まで一緒に好んで聴いていた賛美歌ではもう力を感じない、と言い、本当に力があるのはこの賛美歌だ、と自信たっぷりでした。

これを聴くと聖霊が物凄く来る、と。

 

私は自分が妹よりずっと霊感も信仰も薄かったので、そうなのか、凄い!と思って聴いたのですが、どうしても気持ち悪くて仕方ありませんでした。

それが良いものだと思い込もうと必死で頑張って聴いていたのですが、近くにいた息子が、お願いだから止めてくれと言うほどで、やっぱりそうだよねと一切聴くのをやめてしまいました。

その後、妹は朝のお祈り会から出されてしまったので、やはりそれは聖霊ではなくて、まさに悪霊を呼んでいたのだと思います。

 

私は自分の感覚に自信が無かったので、朝会のことがあってから、やっと妹にその歌を聴かない方が良いと伝えることができました。

 

何からパワーを得るのか、これは本当に重要な問題です。

 

霊的な悪魔も悪霊もパワーをくれます。どこまでも負に働くエネルギーを。そして、自己顕示欲や一時的な欲求や富だけを満たしてくれるのと引き換えに、どこまでも深淵なる漆黒の闇へと引っ張って連れてゆくのです。

 

覚醒剤も大麻もマジックマッシュルームも、きっとパワーをくれるのでしょう。インスピレーションや強烈な刺激、感覚を貰えるからこそ、行き詰まった人達、殊にアーティストやスポーツ選手や芸能人が手を出すのだと思います。

そして、その結果は、誰もが知っている通りです。

 

薬は分かりやすく人を破滅させますが、霊的なものも見えないだけで同じです。

 

ビリビリとエネルギーを感じる、熱を感じる、波動を感じる、などなど、感じるエネルギーは様々ですが、それを感じたからどうなんだ、という話です。

で、いまの心の状態は?

ということなのですよね。

 

心が相変わらず苦しみや不安に支配されているのか、平安に満たされているのか。

 

取り巻く環境が苦境や逆境であるか、平穏無事なのかは関係なく、結局はそこなのだと思います。

 

自分を過信し、自分の感覚ばかりに頼りすぎると間違うのだということを心に刻まなくてはなりません。

 

私達は薬の力を借りなくても、悪魔悪霊の力を借りなくても、大金持ちの人間の富や力を借りなくても、神様から力を頂けます。

神様から頂く力には副作用も無ければ、引き換えに奪われる善や幸せも無ければ、縛られるしがらみもありません。

ただ、神様を嘘のない一つの心で愛し、神様の掟に忠実に生きることが求められているだけです。

清くなること。正しくあること。悪を手放し闘うこと。常に勤勉であること。完全になるよう歩み続けること。

それらは私達にとっても良いことばかりですから、どこまでも有益な努力となります。

そして、神様は力を授けてくださるだけでなく、常に近くで支えてくださり、必ず行いに応じて報いてくださるのです。

 

今、不条理を感じていたとしても、先の見えない苦しみにもがいていたとしても、きっと必ず神様はご覧になっていらっしゃいます。

 

だって、何故、カインでさえ生かされたのでしょうか。

カインを殺すものは7倍の報いを受けるというしるしまで付けられて。

 

私達はどこまでも罪をすすぐことを求められているからではないでしょうか。

生きている間に、必死で罪をすすぐことを。

それは、自分自身の罪だけでなく、親や先祖の罪かもしれません。それらの末端に生きている者が、それを引き受けるしかないからです。自分もその恩恵を受けて命を育んできたわけですし、また、神様が私達を見込んで、私達ならそれを清くできると託してくださったのだと思うからです。

 

だから、私達も、自覚が無くて思い当たらなくて自分の罪がわからなくても、とにかく必死で罪をすすぐことを願い続けなくてはいけないんだなと思いました。

 

主よ、あなたを知った者が、あなたから離れてさすらうことがありませんように。

 

一人でも多くの人が、あなたを知り、愛することができますように。

 

そして苦しい時も辛い時も、必死であなたにしがみつき、すがりつき、この終わりの時を乗り越えて、あなたの食卓に着くことができますように。

 

 

心から祈ります。

 

 


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