神の人とはどういう人か

あろうことか、明け方のお祈りに寝坊してしまいました。

体調も良いので、悔い改めも兼ねて、断食3日目に入ることにしました。

今日一日、出来る限り祈って過ごそうと思います。

 

さて、聖書も4周目に入ると、登場人物の名前や時系列や地理感覚がだいぶ掴めるようになりました。

特に、列王記下では次々と現れるソロモン王以後の王や従者達、預言者達の人物像について、一層深く理解することができます。

エリヤとエリシャの数々のエピソードを混同していたことにも気付いたり、イスラエルとユダの王の名前が同じだったり似ていたりして混乱していた部分が分かったり、かなりスッキリと整ってきました。

 

ところで、列王記下の中で、サラッと書かれた一つのエピソードがずっと私の頭に残っております。

《列王記下2章「エリシャの二つの奇跡」より抜粋(23節〜)》

エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上っていくと、町から小さい子供たちが出てきて彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け。」と言った。エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。エリシャはそこからカルメル山に行き、そこからサマリアに帰った。

これが、二つの奇跡のうちの一つなのです。わざわざ題名まで付いて差別化されています。

(因みにここで挙げられるもう一つの奇跡は、人々がその町の水が悪く、土地が不毛であることをエリシャに訴え、エリシャが水源に塩を投げ込み主に祈ったことで水が清くなり今日に至る、というものです。)

 

私がこの節を初めて読んだ時には、えーっ?!とビックリでした。

だって、「小さい子供たち」ですよ。

嘲り囃し立てることは悪いことだけど、そこまで〜?!と。

寧ろ、振り向いてにらみつけ、主の名によって子供達を呪ったエリシャの方を「心が狭い」と感じたのでした。

 

2回目、3回目の時には特にエリシャの心の狭さを思うことはありませんでしたが、やはりちょっと酷いなという思いが拭えず(だってエリシャはそのまま完全にスルーですし・・・)、スッキリとは納得しておりませんでした。

 

しかし、今は違います。

モヤモヤと引っかかっていた胸のつかえが下りたような感覚があります。

 

誰に対しても嘲り、囃し立てることは悪です。軽んじていることを表に堂々と表した行為です。

それ自体がとても悪いことなのに、子供なのだから容赦してやるのが当然と思うのは、この世の悪い常識です。

子供だからいじめて良いわけでも、分からないから罪を犯して良いわけでもありません。

悪は悪であり、罪は罪なのですから。

 

しかも、相手は「神の人」なのです。

この、「神の人」という認識が、私達には入っていません。神様自体を知らなかったのですから当然です。

もっと理解しやすい例に置き換えると、昔の日本のお殿様の行列に子供が同じことをしたら、その場で斬り捨てられたのではないのでしょうか。

私達は歴史を学び、「斬り捨て御免」などというものが許されていたことを知っていますし、その時代の厳しさを知っているので、「残酷だな」と思いつつも、そのような恐れを知らぬことをした子供の愚かさの方を考えます。

昔の外国の王様や貴族に対しても同じことが言えるでしょう。

王様や貴族の権限は絶対だったのですから。

私はそれまで誤った愛の概念を持っており、また、誤った神様や神の人、キリスト教に対するイメージを持っていたので、エリシャこそが「心狭い」ように映ったのですね。

だって、私の中の従来のキリスト教のイメージだと、何でも寛容に許してくれるように思え、穏やかにたしなめるとか笑って許すと思うじゃないですか。

 

しかし、「神の人」は神様の代理人です。神様から最も愛され、信頼され、あらゆる権能を授かった方です。王様よりも誰よりも権限があるわけです。何しろ、バックにおられるのは神様ですから。

その方を嘲ることは、その尊い方だけでなく、その後ろにいる神様を嘲ることでもあり、許されることではありません。

 

ここで、熊に引き裂かれた子供は四十二人にものぼります。

実際に四十二人で囃し立てたのかは分かりませんが、そのような裁きを受けるだけの心だった、ということだと思います。

一緒になってやっていなかったとしても、遠くにいたとしても、同じ心で笑ったり嘲っていたということでしょう。

神様は全てをご存知の方なのですから。

 

そのように畏れを知らず、礼儀を弁えず、子供だから許されると、面白がって誰彼構わず囃し立てるような子に育てた親への裁きであったとも言えます。

 

子供は弱い存在であり、護るべき大切な命であることは間違いありません。しかし、いずれあっという間に大人になるわけです。

羊にも山羊にもなり得ます。麦にも毒麦にもなり得ます。義人にも悪人にも、聖霊を宿す人にも人間サタンにもなり得るわけです。私達がそうであるように。

そのような悪い芽を放置していたからこそ現に学校でも社会でもイジメがあり、時には命を絶つまでに至らせるのではないでしょうか。

子供だから、女だから、年下だから、老人だから、貧しいから、・・・・

そんなことは言い訳になりません。

善は善、悪は悪です。

この絶対的な神様の基準を私達は知り、守らなければならないと心から思いました。

そして、本当に私達親の教育が問われるのだと、身の引き締まる思いです。

 

もう一つ、引用します。

《マタイによる福音書21章33節より》

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に絞り場を掘り、見張りやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。

また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない。」

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』

だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

・・・・

これはイエス様が聖書にある数々の預言者とご自身のことを語られていると思います。しかし、私達はその後もずっとずっと同じことを繰り返してきたわけです。

神様がこの世の中を神様の望む世界に造られたのに、不従順な人間はサタンに心を明け渡してしまいました。

そこから人間を救おうとして、神様は「神の人」を地上に何人も遣わしてくださっているのに、人間にはそれが分からないのです。

だから普通の人として軽んじてあしらったり、嘲ったり、誹謗中傷し、更には死へと追いやってしまうのです。

 

神の人は神様と一体であることを認識しなければ、ぶどう園の農夫たちのようになります。

 

聖書に書いてあることは昔話やお伽話ではありません。歴史です。実例です。

私達はそこから学び、自らを戒めていかなくてはいけません。

 

「神の国は、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」

イエス様の言葉が心に沁みます。

 

 

どうか、一人でも多くの人々が、神様に立ち返ることができますように。

 

どこまでも大きな愛ゆえに厳しい主の御心を神の人の奥に見つけることができますように。

 

私達の誰もが、「その石」に打ち砕かれたり、押しつぶされる者となりませんように。

 

心から祈ります。

 

 


神の人とはどういう人か」への8件のフィードバック

  1. いつも楽しくブログ拝見させて頂いています。
    今回初めてコメント致します。
    YUKIと申します。

    エリシャの奇跡について、私もちょうど同じように、子供に対してそこまでする必要があったのか、不思議に感じていたのですが、「神の人」という認識が自分に無かったことに気付いて、本当にその通りだ!と思い、思わずコメントさせて頂きました。
    本当にその通りですね。
    私はまだ読み始めたばかりで信仰も浅いですが、まずは1回通読を目標に頑張っています。

    これからもブログ楽しみにしています。

    神さまの祝福がありますように
    お祈りいたします。

    いいね

    1. YUKI さん、
      温かいコメントをありがとうございます。ブログ読んでくださって嬉しいです。とても励みになります。
      これからも共に学んでいきましょう。
      YUKI さんに神様からの豊かな恵みが注がれますことをお祈りいたします。
      ありがとうございました。

      いいね

  2. 初めまして、ベスと申します。
    日本に住んでいる娘と妹たちにこのブログを勧めたところです。
    直近で何があったのか把握しておりますがそれに対する対応にもあなたの聡明さを感じました。

    実は、
    ‘THE HOLY BIBLE'(NEW INTERNATIONAL VERSION)によると”SOME YOUTHS CAME OUT OF THE TOWN”とあります。

    ”YOUTHS”を”小さい子供達”と表現することに”おやっ”と思ってしまいます。
    自分の頭の中で描けるユース達と小さい子供達は年齢的に違うのです。
    ラテン語、アラム語ではどうなのだろうかという疑問に突き当たりました。

    ちょっと気になったものですからお伝えしておこうと思いました。ベス

    いいね

    1. ベスさん、
      温かなコメントをありがとうございます。とても励まされました。
      私は新共同訳の日本語の聖書を読んでおります。なるほど、訳し方によって随分とニュアンスが変わりますね。確かにYOUTHを「小さい子供」とは思いませんね。わざわざそのように訳したのは日本人の気質などを考慮した訳者の判断なのかもしれませんが、いずれにせよ神様の御意図があるのでしょう。聖書の全ての封印がRAPTさんの手によって解かれ、種々の疑問が解消していくように祈ります。
      興味深いお話をありがとうございました。また何かありましたら是非教えてください。
      ベスさんに神様からの祝福が豊かに注がれますことをお祈り致します。

      いいね

  3. 再びコメントいたします。
    どなたかも仰っておられますが(御自身も含めて)あなたのブログで気付きを頂いています。
    正直申し上げて、あくまでも第三者としてですがラプトさんの指摘される件、あながち不条理だとは思えませんでした。
    時に神の人(神のみ言葉を受け、伝える人)の注意のみ言葉は直接的表現で、特に日本人の様に”曖昧さ”を得意(常識)とする社会で育った人達には”ギクッ”と一瞬突き刺さった感じがするものです。

    残念ながら直ぐに(自動的)反応し、言い訳がましくなってしまうのも慣習的技ではないかと、自身の経験から推察するのですが、神の人はそれを良しとはされません。
    それはまた”知恵’(智慧)の浅さ、人格の幼さを披露してしまっているからです。
    ”厳しい主のみ心を神の人の(言葉の)奥に見つける”程の謙虚さ、洞察力が特に愛媛に集まる信者に求められているということですね。

    もう一つ気づいたことですが、”最初に書いてあることは、昔話、おとぎ話ではありません。
    例え話(a fable, an allegory)や比喩(a metaphor)をふんだんに用いて、神様が神の人を通して書かせた歴史書、実例です。の方が私にはピンときました。

    私も、自分の丸太にはなかなか気づかなく、相手のオガクズが未だ良く見えます。
    日本にもある格言:人の振りみて我が振り直せ!ですね。常に人生の生徒でありながら次第に先生を目指すように努めたいですね。

    *あっ!ここで気づきました。4本の柱といい、祈り、みことばをしっかり身につけるということはいつまでもダラダラと人生の生徒を演じるのでなく、一足飛びに先生に自分を上げていく最短の方法をラプトさんは伝えてくださっているのですね。それを、波長が低い、高い、乱れている、整っているという表現にもなるのかと。いえ、表現でなく実際にそうなのでしょう。私には、まだ感知出来ないレベルですが、この感知力も生まれながらに与えられた人でない限り、自己鍛錬によって習得せざるを得ません。    今日気づきましたので共有させてくださいね。ではまた、ベス。

    いいね

    1. ベスさん、
      丁寧なコメントをありがとうございます。
      RAPTさんを「神の人」と悟りきれていなかった過去の積み重ねを裁かれております。RAPT さんの仰ることを不条理とは思いませんよ。全て謹んで受け止め、悔い改めます。
      自分では気付かない大きな罪やゴミに気付かせて頂くことは救いでしかなく、感謝の気持ちしかありません。誠にRAPTさんは神の人です。
      ベスさんに神様からの祝福がありますようにお祈りいたします。
      ありがとうございました。

      いいね

  4. すみません。続きです。
    ”外から、あれやこれや混ぜて”というラプトさんの表現は、この一足飛びを妨ぎ、より負荷のかかるものという意味かと。
    私自身の直感にすぎませんが。 ありがとうございました。 ベス

    いいね

    1. ベスさん、
      旧約の時代でしたら聖所に関わる者は掟を守らなければ即刻命を取られる程に神様の基準は厳密なのですよね。自分を更に精錬し不純物を取り除き、どこまでも清くなりたいですね。
      ありがとうございました。

      いいね

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中